戦後民主主義の処刑小説?

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徹底した戦後民主主義者で高橋哲哉らとともに戦争責任を問う小森陽一のこの『村上春樹論』は徹底した論理の積み重ねで、しかもテクスト『海辺のカフカ』の文脈に沿って深く深く切り開く手際は見事と言って過言でない、そしてその論述の仕方で延々と逃げ場のないように批評で春樹を追いつめながら最終的にはウルトラ技で「どうしようもない」、絶望と希望を回避して政治を語ろうとしない、第三の道を模索しているかに見える村上春樹をひょっとして肯定するような結になるのではないかとへそ曲がりの想像をしましたが、(というのはこのような分析の彼方に、だから村上春樹を認めるということが論述出来ると思ったからです)やはり、小森さんの政治的メッセージは不動のもので揺らぎがない。

 これまで分析してきたように、『海辺のカフカ』では、「戦争」という国家の組織的暴力によって、夫の命を奪われた、ナカタさんの担任の岡持先生が、自らが過剰な性欲を抱いた結果、ナカタ少年に暴力を振るったことを理由に、夫の戦死を自らの罪に対する罰として受け入れてしまっています。このような形で<精神ある人間として呼吸する女>の、語られてもよかったはずの「記憶の証言」をめぐる吐息が、『海辺のカフカ』では抹殺されているのです。そして誰にも語りはしなかったけど、政治的セクトによる組織的暴力の犠牲となった恋人の死後、ずっと文字で書きつづけてきた佐伯さんの「三冊のファイル」の焼却、すなわちテクストの抹殺という形で、二度にわたる<精神のある人間として呼吸する女たち>の精神の殺戮こそが、『海辺のカフカ』の処刑小説としての基本設定なのです。
 <精神のある人間として呼吸する女たち>が記憶していることなど、忘れてもかまわないという許しと、歴史認識が空虚であってもかまわないという許しをすべての読者に与えること、それが、『海辺のカフカ』が<癒し>を与える最大の理由なのです。

 しかし、「歴史認識が空虚であってもかまわないという許し」は<癒し>につながるだろうか、逆に歴史修正主義者たちのように別の物語が装填されないと、<癒し>は生まれないのではないか、確かに『海辺のカフカ』では声高に政治的メッセージを発信しているわけでない、それが隠されている、だからこそ質が悪いと小森さんは感じているのでしょう。「忘却」で癒されるほど人間はタフであるはずがない、捏造されたものであれ、新しく偽造されたものであれ、「記憶」の枠でしか、人間の営みは救いも癒しもないと思う。小森さんが弾劾する村上春樹の「記憶喪失装置」の救いは救いでなく認知障害者的<癒し>でしかないであろう、小説家としてはそこまでしか書けない、それでいいのではないかと思う。読者が感じる<癒し>が歴史を、記憶を忘却する認知障害的なものなんだと、それを認知するだけでもこの小説の圧倒的な存在意義がある、と思う。
 後は、読み手の一人一人が反面教師としてでも、又は春樹さんの文脈に沿って小森さんや、高橋さんの運動に加わるかもしれない、それは読者に投げ出されたのです。どうも高橋哲哉さんもそうですが、小森さんも説教過多の気味がありますね、しかし、故安原顕の『海辺のカフカ』に対するレビューは罵倒語だけで何らの分析がなされていないけれど、小森さんの分析は夏季講習を受講したかのような充実感がありますが、多少、第五章の「『海辺のカフカ』と戦後日本社会」には閉口しました。それでも一部をここから引用しています。

 2002年に20代だった読者は、中学あるいは高校のときに、「従軍慰安婦」問題を知った世代です。その事実と出会ったときの精神的外傷とは向かい合わなくていい、まるごと捨てていいという<解離>へと誘うのが『海辺のカフカ』なのです。
 しかも『少年カフカ』という、読者とのメールのやりとりを詳細に記録した分厚いムックまで出版し、『海辺のカフカ』こそが2002年7月以降の、日本の社会で生きる読者、とりわけ若者たちの最大の<癒し>となったことを宣伝する、という一連の広告戦略そのものの中に、歴史の否認、歴史の否定、記憶の抹殺の機能が組み込まれていたのです。だからこそ、『アンダーグランド』から、村上春樹という作家が決定的に転向したことを、むしろ読者が<癒し>として受け入れているという形での自己正当化をはかる意図を、文芸批評家としての私は批判しなければならないのです。
 なぜなら、それは、言葉を操る生きものとしての人間の、すなわち、<精神のある人間として呼吸する>存在の、最も要にある能力を冒涜する行為であると思うからです。

 ここまで弾劾されても村上さんは何の反論もしないのでしょうね、上の安原顕ことヤスケンさんに対して原稿流出事件の疑惑で新聞にヤスケンさんを貶める記事を書きましたが、そのような怒りがあるなら、本流の文芸批評に関しても果敢に反論を試みればいいと思いますが、黙して語らない人ですね、
参照:「九条の会」のサイト戦略 - 機会損失、ブランド戦略、モメンタム : 世に倦む日日
猫を償うに猫をもってせよ