画面サイズの謎

ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 スペシャル・エディション [DVD]オンライン書店ビーケーワン:ソクーロフとの対話
 やっと日本でも上映公開されることになったイッセー尾形昭和天皇を演じる『太陽』の監督ソクーロフ前田英樹が対話してソクーロフの映画について徹底して語り尽くしたソクーロフ自身にとっても素晴らしい映画論の一冊になった『ソクーロフとの対話ー魂の声、物質の夢ー』(河出書房新社)を図書館で借りて読書中なのですが、ちょうど同じ図書館でDVDの完全版『ニューシネマパラダイス』を借りたのですが、この映画はテレビ画面で見るものではありませんね、僕たちは今ではDVDの液晶大画面で見ることが普通になっていますが、映画監督が映画作りに劇場スクリーンの映写段階まで深く考えを及ぼしているのだったら、劇場で見ない映画は映画ではない別のものになってしまう。
 確かに『ニューシネマパラダイス』で僕達は入れ子状態でスクリーンに上映された映画を主人公のトト少年と一緒になって愉しむわけですが、あの大昔のパラダイス劇場より僕たちはつまらない場所で映画を鑑賞しているんだという哀しみを覚えます。
 前田英樹は映画における知覚段階と映写段階について監督に問いかける。

ソクーロフーーその謎に関して、幾つかの説明をすることは可能です。映画の光とは神から来たものなのです。テレビのおける光は神から来たものではなくて、人間によって考えつかれたものです。物理的な現象について言うのですが、映画館の座席に座って、スクリーンに向かっているとします。そして、映写室から光が来ます。確かに、この光もテレビと同じように電気が作り出したものです。しかし、映写室からスクリーンに届く光は、空気を突き抜けているのです。この空気そのものは、神によって作られた謎めいたものなのです!それが、光がスクリーンに到達するまでに与えられているのです。もうひとつ、これは大事なことなのですが、スクリーンに映写室の穴から光が届きます。その間の客室には観客が座っています。この観客はみんなオーラを発しているのです。このオーラが、高く高く昇っていって、この映画館全体を覆います。観客のオーラを通過しなければ映写室からの光はスクリーンに届くことができないのです!そして、私たちは映画を観る。観客も、この映画を現実化するのに参加しているのです。時々、映画館の観客が全然映画に関心がなかったり、何も感じなかったりする時は、どうにもしようがありません。結局この映画に適した人たちではなかったのです。ここのこの映画は必要ではなかった。そのような時、空気の上の方では闘いが行われているのです。この観客一人一人から昇っていく全てのオーラの間を映写の光は通過していくのです。光も関心と無関心が闘うオーラの中で闘っています。光は、そこで分散されたり、壊れたりします。そして、光は力無くやっとスクリーンに到着するのです。そのとき、私達は映画に感動することが出来ません。しかし、このテレビという箱の中で起きることは、それとは全く異なることです。この箱の中には空気さえないのです!中は真空なのです(笑)。少しぐらい空気を入れておけばよかったのではないかと思うのですが、技術者はそれさえも抜いてしまうのですね!これはほとんど冗談ですけれど、でも、お伽噺が書けそうですね。人々が、どのように映画を見ているのか。その映画館の中で一人一人の観客のオーラを通り抜けて、本当に可哀相な光がやっとスクリーンにたどりつく。悲しい物語です。

 観客不在で見る映画はホント!哀しくて寂しいものです。せめて家族で見るというのも段々と少なくなったでしょうね、劇場で一度、僕を入れて観客が二人っていうのがありましたね、アフガンの映画でした。月に一度市民ホールでの映画上映を愉しみにしているのですが、何百人、ひょっとして千人ぐらいか、そんな大観衆で見る映画はDVDで一人画面に向かって見る映画とやっぱし、何かが違います。
参照:http://homepage2.nifty.com/deracine/russia/solntse.htm
http://www.cinematopics.com/cinema/topics/topics.php?number=877
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=366
昭和天皇を描いた話題作、映画『太陽』オフィシャルブックに寄稿しました - 吉田アミの日日ノ日キ