働くもの食うべからず?

 ソネさんのコメントカキコに関してマイミクさんが下記のようなカキコがありました。
>ビンボーで教養もない東南アジアの男性が、日本の働いている女性に食わせてもらって小遣いまでもらうヒモ状態でありながら、イバっているのは、なぜなんでしょう。彼らには日本のヤングメンが持ち合わせていない 矜持とかプライドとかがあるからっていうんですが
というの、文化の差というのもありません?
「ヒモ状態」って恥ずかしいものだ、というイメージこそ、世界中眺めたら、めずらしいってこともあるのかもしれない、などと思いましたが、どうだろ?
だって、ある意味「貴族的」ではありませんか? それで、「いばっている」のではないかしら。
それに対して僕は次のようなコメントをしました。

まあ、奥田瑛二安藤和津物語もありますね。
そうだよね、お殿様だものね、 専業主婦にしてもお手伝いさんが居れば、 お姫さまだもの…
不運な王子、貴種と転生の物語、そんな物語が文化としてありますよね、
むしろ「ヒモ状態」が恥ずかしいって言うのは、近代の産物でとくにプロテスタンティズム精神が産んだものでしょう。「働かざるもの食うべからず」
でも、これは働くことがプロレタリアートという階級カテゴリーで科学的に思想的に押し込められて、左からも結局同じようなメッセージが強要された。「働かざるもの食うべからず」
そのような、社会主義的なもの、新自由主義的なものから、距離というより、全く違った文化のシーンで生きている人びとがいることは間違いない、
ソネさんとマイミクさんのカキコで具体的な知人を思い浮かべました。
彼はビンボーなんだけれど、そのことに関しては屁とも思っていない。生き方が「貴族的」なのです。
好きな女の子がいれば、相手の家に忍び込めばいいのです。 源氏物語の世界ですね、
カネはなくとも「光源氏」ぐらいにはなりたいという 思いは僕にもありますよ、
でも最近は光源氏は知っていても、「源氏物語光源氏」を知らない人が増えてきました。そのことを文化の危機と捉えるのでしたら、合点がいきます。
「働くことに教養はいらないけれど、源氏物語を受容するには教養がいる」
そういう意味で「ビンボーで教養もない東南アジアの男性」は文化として(無意識層として)「教養」を持っているのかもしれない、まあ、それを男文化として一刀両断する理論武装は簡単に出来るでしょう、でも、それは、男と女の性差を越えて、欲望の構造にがっちり食い込まれている。『源氏物語』は女の人が書いたものであることは間違いない。

 どちらにしろ、働くものより、働かざる「遊び人」が古今東西モテていた歴史がありますよね、僕らの青春時代でもフーテンはもてました。でも、今はそんな時代ではない、大筋としてはビンボーな若者がモテなくなった。でも、それはマスコミ情報でビンボーであろうとなかろうと、モテル奴はモテる。そりゃあ、ホリエモンはモテたかもしれない、でも、その事例はあんまり普遍性がない、結局、もてたい男にもてず、もてたい女にもてず、束の間でも鍋釜持って相思相愛って言うのがすごく少なくなったというのは事実でしょう。
 犯罪事件として時には「王子様」が出現する嫌な時代になったことは間違いない。
 そして、「ワーキング・プア」って、結果として「働くもの食うべからず」が進行している由々しき事態だと言うことでしょう。