感情の政治学のメモ?

 ソネさんのメタ言語についてのコメントを書くには少し長くなりますので、ここで書きます。そもそも、宮台真司主催思想塾で行われた「ライフ・ポリティックス」のシンポで「感情の政治学」について問題の提議がなされ、参加者たちにレポがネットアップされました。
 それを読むと人(他者)を揺り動かす言葉って「切実さ」、「情」が根底になければダメだという気づきがありました。「理屈」、「論理」だけでは単に知識読者共同体の内に囲繞されて何ら外につながらない、そのような問題提議は双風舎刊の『バックラッシュ!』論争において赤木智弘さんが「叫び(言葉)」という石投げをしてくれたわけです。そのことの戦略的な意味はありました。
 僕なんかはいわゆる第三の道だと思うが、第三の道を推奨しても、本来それにより近い若者達かもしれないが、反バックラッシュ派のエリート臭、第三の道の人々の鵺的言説に対して、バックラッシュ派の人々の理屈ではない、「情」そのもので「生」に仕掛ける磁場に結局、そのような若者達を動員されてしまうのでないか?
 そんな危機感から赤木さんが「お嫁さん募集」のようなより分配を均一化するエグゼクティブなキャリアウーマン、エリート文化人(女)に対して社会的方策を提示したわけです。ここで、わかりやすく、あえて強者、弱者という言葉を使って、年収300万円以上を?強者、以下を?弱者に分類した上で?×?の組み合わせを推進し、?×?、?×?の格差拡大を回避しようと、とても合理的な判断をしたわけです。
 多分、赤木さんは『バックラッシュ!』の本に登場した執筆者達がそのような方向性で赤木さんを始めどちらの道を歩くべきか蹈鞴踏んでいる若者たちに何らかの方向指示器を示してくれのかと期待してのに、あいも変わらず「知的遊戯」に終始していたという赤木さんの批評だったと思う。そのような批評言語は「知」でもって応酬しても実りのあるものは少ない、「macska」さんを始め執筆陣達に「情」で応えて欲しかったんではないか、最近、僕のブログによくコメントして下さるヒグラシさんが、

私は、自分が感じたことを、社会に訴えるには、(1)「声をあげる」(2)「論理にする」(3)「説得する」という三段階があると思います。もちろん、(3)でないと、なかなか聞き入れてもらえないし、(3)に到達するスキルをどうやって身につけるか(べきか)という問題は重要です。でも、(1)で精一杯の人もいると思うんですよね。今までは、専門家(研究者や支援者)が代わりに(3)を行っていたと思うんですけど、それではマズイということもたくさん指摘されています。もっと(3)に到達できるようにがんばれ、というのも一案なんですけど、(1)の人の言うことをどうやって受け止められるのか考えようよ、というのが森岡さんの提案だったのかなあ、という風に理解しました。弱者男性の主張をしている人が(3)に到達している(できる)かどうかはおいといて、たとえば、犯罪被害者に「声をあげてほしい」と求めるときに、考えるべき問題ではないかな、と感じました。

 非常に論理的な整理で端的に書いて下さいました。それに対してslowbirdさんが(2’)で「論理にする」でなくて「感情にする」のではないかという思わぬ指摘がありました。僕は言葉に出来ないけれど、何か直感としてとてもナットク出来る部分があるのです。本人はその考えを整理するために『チョムスキーからオーウェル』というエントリーをアップして、「言語が人間を作った、作るのであって、人間が言語をではない」という仮説をアップしてそれを受けて上のソネさんの「メタ言語について」につながったのでしょう。
 「感情」の介入を完全に排除して論争するディベートがありますよね、例えばヒラリー・クリントンが高校生の頃から自分の本音とは反対の主張に立ってディベートすることでディベート能力が鍛えられたらしいですが、僕たちの国ではそんな文化はない、だからもし、?バックラッシュ派、?反バックラッシュ派のどちらかの派に立って論陣を展開せよと、くじ引きでどちらかのポジションを選択したら、多分、?の立場で論陣を張ることはもの凄く難しい、まあ、僕が男であるというハンディもあるのですが、精密な「理論武装」で論駁しょうと試みることになると思う。
 でも、それが逆に聴き手の反発を招く危険がある。?を引いたら多分、大きな身振りで「感情」を込めて喋ると思うのです。そうして意外と聴き手の共感を得る。僕の本心が?の「反バックラッシュ派」であったとしても…、
 そのことの困難さが?のバックラッシュ派を攻撃しようとする?ないし第三の道を選択する人々にはあると思うのです。真に正しい道は少数派にある(僕はその傾向…)と居直ることは不味いのではないか、
 「言語が人間を作る」という生成の中でブーメランのように言語が再帰性の羽根を得て近代的知的空間を飛翔する。それは不味いのではないか、
 そのスパイラルから脱出するために(1)の「声をあげる」(叫び)に対して言論人はもっと、もっと、敏感になるべきではないか、サヨ、ウヨという分類で言えば、むしろウヨ、バックラッシュ派が「生の感情」を表出するのに巧みである。そんなのヘタレの表出に過ぎない、ちゃんとした言葉(表現)で持って出直して来い!と言ったって負け犬の遠吠えになるのではないか、内部に論理を装填した「感情にする」言葉を生成しないと、ダメではないかというslowbirdさんの疑念であったと思う。
 かって、寺山修司が「本を捨てて街へ出よう!」と叫びましたが、これの持つ力は何時の時代でも有効である。言語は本という器に閉じこめられているものでなく、街を行く人々、ビル、家々あらゆる風景に「言葉」が隠れている。恐らく赤木さんの年収300万円以下の風景に論壇人は鋭敏になれということなんだと思う。ソネさんの「メタ言語」と直接つながっていないかもしれないが、地中深く「感情」としてつながっていると思う。