ゲドめ!竜の落雷でとんでもない目にあってしまった。

スタジオジブリ・プロデュース 「ゲド戦記歌集」岡田准一 改メ 青木宗左衛門 (講談社 Mook)
 今日は厄日だったのでしょうか、魔が差して、映画『ゲド戦記』を観るために国道一号線沿いのジャスコ久御山にチャリンコで出かけたのですが、冒頭から主人公の王子アレンが悪魔(影)が乗り移ってというか民から慕われているとしか言いようのない父王を唐突に刺し殺す。
 悪魔が殺したと言い続けるあのペルー人の少女殺しと同じではないか、まあ、それはいい、その父親殺しの神話的な問いが映画を通して補助線としても語られるのかと思いきや、全く触れられない、あれ!あれはどうなっているの?と最後まで首をかしげてしまいました。
 それよりもっとわからないのは、監督のいわんとした本筋のテーマは「生きること」、「いのちを大切に」という当たり前のクリシェなのですが、でも実際のアレンは最後まで「命」を大切にしないのです。是枝監督の『花よりもなお』の主人公と同じ岡田准一でしょう。でも、こちらは徹底して「いのちを大切にします」、まあ、野犬を殺して長屋連中で食べるシーンがありますが、何せ、犬公方徳川綱吉の時世ですから、でも、仇討ちの因果報復の連鎖を断って岡田准一は仇討ちをしないで、ちゃっかり長屋の連中と一緒に仇討ち芝居で藩から報奨金をせしめる。そんなしたたかな大人の映画なのです。まあ、この映画と比べると大人気ないが、子どもの映画なんだからと言ってもこれではなぁ…、よう薦められません。にもかかわらず声高に説教するのです。
 具体的に書くとネタバレになるからやめますが、腑に落ちない気持ちのまま、気分転換にとジャスコで冷やかしショッピングをしようとウロウロしていたら、突然、雷、大雨、館内に旭屋書店もあるのですが、立ち読みするどころか、停電になりました。
 それで、尿意を催しトイレに行ったのですが、手を洗おうとしたら水が出ない、センサー感知の自動ですからね、やはり水道の栓は手でひねる方が災害時に対応出来るのではないですか、電気が止まっても水道管が破裂しなければ、水が出る。これじゃあ、停電でセンサー感知のものは水に限らず止まってしまうではないか、しかし、自家発電の装置はどうなっているのかな、こんなデカイショッピングモールなんだから、あるはずですよね、
 結局、復帰まで10分ぐらいかかりました。それでも外は大雨、直径70cmの雨傘(580円)を急遽購入して雨の国道一号線を傘さしてチャリンコでおたおた走りました。危なくて仕方がない、オマケにやっと、国道一号線からおさらばして家に向かいましたが男山周辺はアップダウンがきつく6段変速のギアチェンジを細かく切り替えて走行しても顎が出ました。ぐったりです。
 何故、この映画を急に見ようと思ったのか、こちらの『きっこさんの日記 ゲド戦記』を先に読んで、だめ押しで宮台真司さんの「感情のポリティクス」が横行する背景に、「セカイ系」の人々が量産される現実があることを書きましたというエントリーを読んでいれば、こんな過ちはしなくて、テアトル梅田で『時をかける少女』を観ていたでしょう。
 魔がさした、いや影がさしたのでしょう。
 ★手蔦葵の歌は文句なく良かったですよ、この声質は僕のツボですね。http://www.teshimaaoi.com/index2.html
 ◆eireneさんが、板東さんの「子猫殺しは間引きの話」なんだと整理していますが、ゲド戦記の大テーマ「バランス」が大切なんだという文脈で言えば悪い魔女クモ(田中裕子)が殺されるのは「間引きの問題」かもしれない。そうやってこの映画を観れば、又、違って見えるかもしれないですね。でも、いくら考えたって「父親殺しは」唐突で説得を放棄している。
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20060827/p1
◆そんな読解をすれば、竜が人間を食べることで、世界のバランスが取り戻せ、人馬一体ならず、人竜一体で「セカイ」が豊かさを勝ち取る。そんなメタフォーですか、アレンが竜となってクモを食べてあげれば良かったのに…。でも、食欲をそそる画ではなかったですね、せっかくの田中裕子さんの声だったのに、残念、無念。