叫び→普遍

 bk1さんの夏の書評コンクールで贈り物をもらいました、ありがとう!最優秀賞は中村びわさんの三中信宏著『系統樹思考の世界』のレビューですが、、興味深く拝見しました。
 そこで、言及している中村さんの問い《「普遍→専門」という紹介の流れが、通常期待する「専門→普遍」の流れと逆になっていた点である。》との指摘は、昨日、エントリーした『あの橋で何が起きたのか?』にもつながる、基本的で悩ましい問題だと思う。深夜シマネコさんの『主観か客観か?』(8/29付き)も似たような問いではないか?
 僕は専門家ではないので、「情→普遍」という道筋しか想定出来ないのですが、例えば優れた文学者の作品は「感情」(切実さ)→作品(普遍)の流れなのは当然です。それは「表出」→「表現」の流れです。学者の仕事は「感情→専門→普遍」なのでしょうね、でも、学者であれ、僕のようなシロウトであれ、出発点は「感情」(主観?、切実さ?)であり、そのあたりのことが看過されやすいのではないか?
 そのことが中村さんの「普遍→専門」に対する疑念なんだと思う。深夜シマネコの赤木さんもあえて誤読されやすい「弱者男性」というスレで言いたかったことは、言論人は「切実さ」から出発して欲しいと、すごく当たり前のことを言ったのだと思う。
 そして、その切実さのシーンでは個々の組織を離れ、自らの実存では系統樹の根っこのところで、話が出来るということなんだと思う。例え近代の「再帰性」という言語フレームがあろうとも、「切実さ」という回路でしか、他者と関わり合うことは不可能なのでしょう。うざったさが、動力で成り得なかったったら、他に替わり得るものがあるだろうか、叫びも言葉なんだと思う。