感情の政治学?

 僕はてるてるさんの『そこに空き地があるから』のコメント欄を読んでいたら暗澹たる気持ちになってしまった。坂東さんに対して自省なくバッシングしている人たちの一部は、一点の曇りもなく何らの検証もしようとしない、怠惰な自分の感情だけを拠り所にしたスカスカの正義を振りかざして坂東さんを排除しようとする。*1
 徹底した“見たくないものを見ようとしない”振る舞いに「恥」を感じるどころか、「あんたのような人に隣に住んで欲しくない」と暴言を吐く。思わず、僕は身体反応して「僕は逆に坂東さんのような人に隣に住んで欲しい、怖いのは坂東さんのような文明批評に何ら自省のきっかけにしようとしない厚顔無恥な人々です。」とコメントにカキコしようと思ったのですが、徒労を感じてやめました。*2
 顔の見えない人にネットで言葉を投げても受け取ってもらえないだろうという徒労です。特に「感情」を正面に立ててやりとりしようとする応酬においてオフの対面でなら兎も角、ネットではまず無理だという諦めです。
 もし、ネットでやっていささか効果のあることは、立場交換のディベートなら、ひょっとして…、例えば、僕が坂東非難をする、坂東バッシングをしている人が坂東擁護をしてみる。勿論、そうなれば、「魂入らず」で「感情のない理屈」で論を展開することになるでしょう。
 でも、ひょっとして、人間が言語を生むのではなく、言語が人間を生むんだという「奇跡」(まあ、これがより真実に近いかもしれませんが…)が起きるかもしれない。熱いディベートの果てに?チェンジ?が出来するかもしれない。坂東擁護派だった僕が坂東非難派になってしまうという「思いもよらぬ出来」です。逆もあります。*3
 そして螺旋階段を昇る。そのような自分の壁を溶解する作業がないと次のステージにはいけないのではないか、
 ichikinさんの『レヴィナス=ブッダの二重螺旋構造』について考えたいと思います。このところ、僕の周辺で様々なバトルトークが巻き上がりましたが、「感情」を骨格として終始すると、お互いに不幸ではないかと思う。勿論、「感情」から出発し最終的には「感情」を取り込む「表現」へと言葉は昇華すべきでしょう。そうでないと、「普遍」へと拡がらない。このことに関しては言論人足る人たちは了解があると思うのです。そうなら、問題解決の入り口も出口もあるはずです。「感情」を「政治」で弄ぼうとしなければ…。

だから、「神=隣人を追い払う」という起源的事実は、善性を基礎づけるためには、決してあってはならないことなのであるにもかかわらず、私の善性を基礎づけるために、「かつて私は主を追い払った」という起源的事実にかかわる偽りの記憶を私は進んで引き受けなければならないのである。 実際に罪を犯したがゆえに、有責性を覚知するのではなく、有責性を基礎づけるために、「犯していない罪」について罪状を告白すること。それが「私は自分が犯していない罪について有責である」という言葉にレヴィナスが託した意味である。(略)

人間は間違うことによってはじめて正しくなることができる。人間はいまここに存在することを、端的に「存在する」としてではなく、「遅れて到来した」とう仕方で受け止めることではじめて人間的たりうる。そのような迂路によってレヴィナス人間性を基礎づけたのである。(内田樹『私家版・ユダヤ文化論』pp.223-225 著者の傍点省略)

 ichikinさんのところから孫引用しました。
オンライン書店ビーケーワン:私家版・ユダヤ文化論