限りなく当事者として…

べてるの家の「当事者研究」 (シリーズ ケアをひらく)「べてるの家」から吹く風とても普通の人たち ベリーオーディナリーピープル~浦河べてるの家から憲法九条を世界遺産に (集英社新書)湛山回想 (岩波文庫 青 168-2)
 戯画的日乗をロムしていると、こんなことを書いていました。

一番ショックだったことは、アイヌはいくら貧しくても間引きをしなかったということ。東北の貧しい地方では、間引きせざるを得なかったと聞くけれど、アイヌは村全体でそういう子どもを育てた。食物もトコトン利用し、保存食も何年も保存できるものなど、いろいろと工夫し、知恵を出しあい、飢饉下にあってもなんとかみんなで生きのびてきたという。誰の子どもとか、家ではなく、ひとつの村という共同体として。

 それから「ぺてるの家」につながるのですが、gigatekiさんの連日、アップされている『ぺてるの家の「当事者研究」』(医学書院)についての記事は「当事者」ということについて痛く感じます。
 ★http://d.hatena.ne.jp/gigateki/20060913
 ★http://d.hatena.ne.jp/gigateki/20060915
 茂木健一郎脳講座の『動物の社会的知性(Social Intelligence)』における「同属と他属」も当事者という問題につながるでしょう。
 ◆http://d.hatena.ne.jp/gigateki/20060916
 太田光中沢新一の『憲法九条を世界遺産に』ついての記事で「愛と憎は対」については、宮台さんの「人々が倫理的だけど殺人が起こる社会」と「倫理的な人がいないけど殺人が起こらない社会」とどちらがいいかにも問われるのですが、
http://miyadai.com/index.php?itemid=395★いわゆるサヨク論壇は「倫理的な人がいないけど殺人が起こらない社会」についてソーシャルデザインを考える「非当事者的」な冷淡さがあるのではないか、そんなことを思ってしまう。
 ★http://d.hatena.ne.jp/gigateki/20060828
 今、石橋湛山の『湛山回想』(岩波文庫)を読んでいるのですが、憲政の神様と言われた尾崎行雄犬養毅が案に相違して普通選挙法が法律化されるのに反対して湛山は大正二年三月五日号の『東洋経済新報』で「犬養、尾崎両氏に与う」という社説を書いて両氏を攻撃したわけですが、「教育(心)が先か法律が先か」の問題は依然としてありますね、
 尾崎の『萼堂自伝』を孫引用します。

 「私(尾崎氏)の記憶では、真先に普通選挙を唱えたのは松本君平、岡崎邦輔、日向輝武の諸君であった。私も逸早くこれを叫んだが、法律にせよとはいわなかった。私は先ず普通選挙を求むる人間を作れ、しかる後与えよと、政治教育の必要を力説したのである。それは私が多年選挙に関係した経験から択んだ安全の道ーー議会政治のためにも、普通選挙それ自身のためにも最良の順序であると考えたのである」

 前日のエントリーで紹介した金井美恵子の『タマや』は「猫も人間も、生まれて来る子供の父親の正体を探そうとしても無意味だ、自分の正体にしても同じことだ」と金井さんはあとがきにこの小説のテーマはこれですと、書いているのですが、「父親を捜し、殺す」という伝統的な物語が、もはや二十年前において「探そうにもどこにも父親がいない」という状況があったわけでしょう。尾崎、犬養は殺されるべき父親として物語を駆動していた大文字でもあったわけ。物語の連鎖はいつからか、「当事者の連鎖」ではなく、「マニュアル(データ)の連鎖」でフラットなソーシャルデザインが選択されたということでしょう。
 父親殺しと言えば、映画『ゲド戦記』で王子が冒頭で父王を唐突に殺すでしょう。そうしないと物語が始まらないのかと思ってしまう。物語って厄介ですね。
 でも、「生きる」ということは、「当事者の磁場」で可能な限りアクセスするしかないでしょうね。父親が不在なら、自らが、父であり子でありつづけるしかない。それは恐らく「母としての男」になることかも知れない。医者/患者、先生/生徒、夫/妻、役割として演技するものとして演じ続けるためには「父親?の指揮棒」が必要であるだろう。指揮棒不在で交響曲を奏することが出来得るか、でもそのような問いを立ててクヨクヨするより、当事者としてプレーするスキルを常に他者との合奏で磨く日常をあたりまえに身につけるしかないだろう。そのような磁場を通して自然と指揮棒をその都度、発見するかもしれない。それでいいのではないか、ナショナリズムは強制すべきものでないし、強制されることによって生まれるものでもない。「当事者意識」は自ら逃れようもなく立ち現れるもので、内面化されたナショナリズムとはそんな「当事者意識」を内包するもので、だからこそ、恐るべき力を持ち得るし、世界をも変え得る。ナショナルなものとアナーキーなものとは表裏なものではないか?
 参照:http://www.andrew.ac.jp/sociology/teachers/harada/profile/coffee101.html