なにやらファスト気分?

 自分でブログを書くよりも読む方が面白いです。成城トランスカレッジ!のリンクを辿ると止まらなくなる、例えば、「存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて(マンガ版)」をクリックすると、また、痴的?気分で遊びたくなる。アカンタレですね(笑)。
 小谷野さんのブログがプライベートモードになりましたが、どうして?のレスが『思いつくとすぐ書くという、オナニーを覚えた猿状態になってきたので、禁欲のため閉鎖しました。』とある。僕も猛省しなくては…。
 でも、武田徹さんのオンライン日記は長い年月継続しているが、新鮮さを失わない、それは一人ジャーナリストとしての時評が底流にあるからでしょうか、最新記事のファスト風土(10/3)立花隆との立ち位置をファクトとの取り扱いでジャーナリストとしての武田さんの自画像を書いて見せているのですが、ニュージャーナリズムという言葉がかって、沢木耕太郎カポーティを評するときに使われたが、立花隆にはそんな使われ方はしないよね、どうやら、僕は定義付けは出来ないが、少なくとも、武田さんが書いている以下の述懐はナットク出来る。

ぼくはファクトは押さえるけれど、絶対にファクトの紹介だけでは終わらせたくなくて、ファクトの見方の思想史的な検討とかをしたい方。なぜそうなのか考えたのだけれど、ファクトで勝負しているかぎり、媒体の強さ、本人のスタイタスの強さが取材上重要になる。ファクトは手が届いてしまえば誰でも扱えるのであって、他の人の手が届かないファクトにまでいかに手を伸ばせるかが肝要になるからだ。立花さんがアメリカのサイボーク技術の最先端を取材できるのもテレビ局を動かせるからだろう。ということはファクトで勝負している限り、たとえば立花さんと競おうとしたら立花さんのポジションを目指して成り上がってゆくキャッチアップ戦略がどうしても必要になる。ほとんどのジャーナリストはそうしている。現実に出来ていないだけだ。
ぼくはそういうのは嫌で(といっても権力指向が嫌いというきれい事なのではなく、単に面倒くさい)そうした舞台ではないところで勝負したい。で、手に入ってしまえば誰にでも紹介できるファクトではなく、自分なりの見方とか分析の方法を重視したい。そんな結果として満州国でハートを、隔離という病でノージックを、核論でルーマンを引くようなへんちくりん(笑)な批評的分析的ノンフィクションを書くことになる。残念なことはそういうやり方には読者がそう多くはいないことだ。

 ファクトの見方の思想史的な検討って、社会学者に限りなく近い位置取りになると思うのですが、ニュージャーナリズムって、ファクトに+文学を挿入したジャンルだったのでしょうか、
参照:http://www1.big.or.jp/~solar/oldrevews/newjournalism.html 
 しかし、武田さんって、ファーストフード店、スタバなどに、よく行くのですね、ファースト風土が最適な仕事場なのでしょうか、