九条は世界遺産なのか、そして、須賀敦子

オンライン書店ビーケーワン:憲法九条を世界遺産にオンライン書店ビーケーワン:須賀敦子全集 第1巻
◆「爆笑問題」の太田光はスゴイやっちゃぁ、とやっぱし思う。今年、藤田嗣司展で戦争画を見ましたが、戦争の悲惨さは伝わったが、戦意高揚の絵という感じはまったくしなかった。でも戦争画を描いた戦犯だと言われ日本を追われたわけですが、いまだに日本を美術界はそのことを封印している。アートの世界でさえこの国の人びとの感受性が摩滅している。せめて、お笑い芸人として鈍感さを封印して常に恍惚の人として、矛盾を生き、トリック・スターとして無様に生きることで、この国に夢と希望を与えることが出来るとの、櫻の覚悟が太田光にあるのでしょう。
宮沢賢治は何故、戦争を肯定するようになったのか、田中智学との関連、そのことの底流にある人びとが戦争を受け入れていった軌跡のあるなにものかが、すんなりと日本憲法を受け入れていった筋道の検証をしながら、かってなかった、おそらくこれからもありえないかもしれない、奇跡的に誕生した日本憲法を、だからこそ、堅持しなければならないと、従来の護憲派改憲派とは全くベクトルが違うところで、太田光は吠えるのです。
 「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中」の番組は今晩(10/6)7時からの二時間バトルトークですね、大いに楽しみです、見なくっちゃあ……、そして、見ました。最後の田原総一朗との対談が面白かった。時間切れだったけれど、昭和9年生まれの軍国少年であった田原はあのまま戦争が続いていたら戦ったであろうし、先に国民のナショナリズムの盛り上がりがあって、国民にソッポを向かれないように新聞マスコミが煽るような記事を書き始めた。それから、60年経って左が正義、右が悪の言説がいつの間にか崩壊したが、湾岸戦争の時が一つの曲がり角であったのではないか、兵を送らないで金を送ることで問題解決して外国からバカにされた、その後の流れは右傾化して、段々と新聞マスコミは時代から取り残され始めた。コイズミ、アベを新聞が批判すればするほど、支持率が上がると言った現象が起き始め、その動きの中で憲法改正問題が現実味を帯び始めた。国家、一部の軍人、戦犯と名指された人たちだけが戦争責任があるのではなくて、国民にも責任がある、それは戦勝国、戦敗国の国民を問わず、総懺悔が何らかの形でなされるべきであったのでしょう。藤田嗣司一人に責任を押しつけて頬かむりした日本画壇と同じようなことが色々なところでなされたのでしょう。僕も国民、大衆の一人ですが、その狡さ、ヘタレ加減を真っ正面から検証しないと、又、同じことの繰り返しでしょうね。戦前の国家主義戦後民主主義が切断されているのではなく、接続されているんだという想像力をフル回転しないと、嫌な時代を呼び込んでしまうかもしれない。
◆leleleさんの双風亭日乗によるともうひとりのホンモノの総理は田中真紀子議員代表質問でーNHKの番組への政治介入についてー質問されたらしいですね、どちらにしろ、向こう五年、もはや、僕たちは憲法問題から逃げるわけにはいかない、どちらを選択するにしろ、思考停止の付和雷同は忌むものとして考えたいと思います。
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200610/sha2006100700.html
 『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)で相手の中沢新一は最終章「濃密な時間のあとで」において、こんな風に書いている。

 ところが、日本国憲法は第九条において、いかなるかたちであれ、国家間の紛争の解決の手段としての戦争を放棄する、と言うのである。さきほどの免疫機能の比喩で言えば、日本という国家は、その機構の最深部分で、自ら免疫機構を解除しようと思う、と語っているのと同じである。このような思想をもつ憲法は、すくなくとも現代国家のなかで日本のものだけである。常識的に考えるかぎり、このような国家思想は尋常ではない。ほかの国家はこのような免疫解除原理にもとづいていないわけだから、とうぜん現実政治の現場では多くの矛盾が発生することになる。そしてこれまで日本は、そうした矛盾が発生するたびごとに、トリッキーなやり方で、困難な事態をなんとか切り抜けてきた。
 自らの存在の深部に、免疫抗体反応の発動を否定しようとしてきたものが、憲法九条以外に、この世にはすくなくともふたつある。ひとつは母体である。女性のからだは、自分の身体のうちに自分とは異なる生命体が発生してきたとき、異物にたいして敏感に反応するはずの免疫機構を部分的に解除して、その異物を数ケ月にわたって、いつくしみ育てる。そうやって新しい生命の誕生が可能になるのである。
 もうひとつは、神話である。神話はかつて人間と動物は兄弟同士であった、と語ることによって、おたがいのあいだに発生してしまったコミュニケーションの遮断と敵対的関係を、すくなくとも思考によって乗り越えようとしてきた。動物から見れば、人間と動物のあいだには、潜在的な戦争状態があり、それによっておたがいの交通は決定的に壊されてしまったのであるけれど、神話は動物もまた別の姿をした一人の人間であると考えることで、この他者たちを同胞として受け入れようとしてきた。のちに生まれた偉大な宗教思想は、数万年にわたって神話が育て上げてきた免疫否定的なこの思想を、大きな国家群が発生したのちの世界に、もういちどよみがえらせようとしたものである。
 つまり、憲法九条に謳われた思想は、現実においては女性の生む能力がしめす生命の「思想」と、表現においては近代的思考に先立つ神話の思考に表明されてきた深エコロジー的「思想」と、同じ構造でできあがっていることになる。どこの国の憲法も、近代的な政治思想にもとづいて書かれたものであるから、とうぜんのことながら、そこには生命を生むものの原理も、世界の非対称性をのり越えようとする神話の思考なども、混入する余地を残していない。ところが、わが憲法のみが、その心臓部にほかのどの憲法にも見いだされない、尋常ならざる原理をセットしているのだ。
 日本国憲法が「世界遺産」に推薦されてしかるべき理由は、そこにある。(168頁より)

 おまけ★:須賀敦子全集が文庫になります。
 もう一つオマケ:爆笑問題ビデオキが見れます。聴けます。