再帰性か?

オンライン書店ビーケーワン:「ひきこもり」だった僕からオンライン書店ビーケーワン:日常・共同体・アイロニー日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界
 久しぶりに「あいつ」に会うと、益々「あかちゃん」になっていた。この蒲団の中にくるまった蓑虫状態から外に放り出すことが果たして可能かどうか、お手上げになってしまう。Freezing Point のueyamakzkさんのブログを時々読みながら勉強しているのですが、問題は再帰性なのかも知れないという問題意識はず〜と持っていたことは間違いない。但し、肝心の再帰性について明確な定義づけが出来得ない。ただ言えることは、僕と、「あいつ」とつなぐものは「再帰性」についての問い直ししかない、だって、僕の中にもそのような「再帰性」がある。共通の欲望があるのです。そこから、入り口、というか、出口というか、切り口がありそうだと思える。

ひきこもり支援者は、「若者を社会復帰させよう」という自分のミッションとそれに賭ける自分の欲望を疑いもしないことが多いが(そしてそれは大変なエネルギーを要する事業を推し進めるのに必要な要素でもあるのだが)、そもそも支援される側の本人の欲望が明らかになっておらず、家を出たいのかそのまま死にたいのかさえよく分からない事情で、いったい何が「支援」にあたるのか、そこのところから反省的に問い直す姿勢を持たずにいられるだろうか。 支援事業は分業制だから、そうした反省を持たずに受け持てるセクションがあることは間違いないが、支援の原理をなす部分で対話的な検討を重ねるためには、「取り組んでいる自分の欲望」の部分(「自分は一体何をしようとしているのか」)で分析的な姿勢を持ってもらわなければ話にならない。
斎藤氏はその意味で、カッコつきの“支援”に関わる自分を、ということはそこに関わる自分の欲望を問題化し――それは精神分析の枠組みそのものだろう――、単に投げやりになるのではなく、反省的に問い直している。 斎藤氏自身にも答えが出ているようには見えない。
ひきこもっている人はどうして自分が引きこもったか分からないが、支援者の側も「どうして自分は支援を志しているのか」が分かっていない*7。 支援する側にとってもされる側にとっても、「確信的原動力」と「繊細な自己検討」の両立が課題になる。 そこで問われているのは、いずれも「欲望」である。
支援される側がみずからにおいて活用できる推進資源は、狂暴な再帰性の枠組み以外ないように思われる。 いっぽう支援者の側は、再帰性がそのまま推進力の減退につながりそうな恐怖を感じる。 だから防衛反応として再帰性や自己分析を拒絶するのではないか。http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20061030より

 上山和樹さんは、上京前の更新エントリーで、再帰性という議論そのものの中に、「歴史性」と「純粋な構造」の両軸が含まれている。と書いているがそうなんだよなぁ、多分、ひきこもり達の大部分は底が抜けた「純粋の構造」軸に再帰性を見ているのではないか。
 参照:2006-11-07