再帰性→公共性→アイロニスト宣言?

 まっちゃんさんから教えてもらったのですが、こちらのYOUTUBEは重いけれど胸に応える映像です。

 それはそうと、今、武田徹さんの『NHK問題』を読んでいるのですが、「共同体」と「公共性」についての思考実験をせざるを得なくなってくる。NHKの「朝のラジオ体操」から、「歌の新聞」、「日曜娯楽版」、「冗談音楽」の三木鶏郎の誕生からある面では戦後が始まった。NHKの丸山鉄雄(丸山真男の兄)との出会いからスタートした冗談音楽・コントはアイロニーに満ちたものである。

おごそかな声「日本人はまだ十二歳の子供である」
一同「恐れいります」
おごそかな声「日本は再軍備しなけらばならない」
別の男の声「へェ、子供の兵隊ってのは初めてだね」
武田徹『NHK問題』97頁よりー

 解任された司令官マッカーサーが帰米して「日本はまだ十二歳の子供だ」とコメントした有名なエピソードからきたものですが、全国紙の今日の一面を飾る「改正教育基本法が成立」、「目標に『愛国心』」とあるのを見ると、マッカーサーがあの世からコメントすると、何て言うだろうかと、「思考停止」になってしまう。
 爆笑問題太田光三木鶏郎を引き継ぎ、乗り越えるアイロニストになるのであろうか、この本を読み終わるとどのような結語になっているのかわからないが、僕なりの思考実験では、例えば、前日紹介した『日常・共同体・アイロニー』(双風舎)においてアイロニーとは「公共性」と親和力が高い。僕はなんとなく、「共同性」、「公共性」と混線して無自覚に言葉を使用していたが、自覚的に「共同性」と「公共性」を分けて考えるべきでしょう。そのようなことを反省しながら、武田さんのこの新刊を今読んでいるわけです。
 思い切って言っちゃうと、公共性とは「アイロニー」に限りなく近いものではないか、それは又、やはり前日書いた「再帰性」の問題に重なる。「神」だとか、「第三者の審級」でも、「大きな物語」でも強力な補強剤を注入しようとすると、そこに「共同体」が紛れ込まざると得ない。それをあえて拒否しない知恵が、武田さんが書いている中井正一の『委員会の論理』(1937年記)だろう。
 アイロニストは再帰性に耐え、むしろそれをエネルギーにして「公共人」たり得る。今更ながら思うのですが、ソクーロフの『太陽』においてイッセー尾形が演じた天皇は見事な「アイロニスト」ではなかったか、イッセー尾形も又、アイロニストであろう。だから、僕は感応したのでしょうね、太田光もしかり、僕は無意識にアイロニストたらんとしているところがある。そんなことを思ってしまいました。「あいつ」にもし、僕から言えることは「アイロニストになれ!」って言うころだろうなぁ、そうすると、ある種の脱力が働いて一歩が踏み出せ得るのではないか…。
参照:2006-12-15
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