一寸の誇り
京都で昨日、『父親たちの星条旗』を見ました。武田徹『NHK問題』を読んだり、烏賀陽さんへの5000万円という「恫喝訴訟」など、リアルメディアの迷走ぶりを改めて学習する機会に恵まれたためか、この映画の英雄は作られるもの、そこにおける『戦争報道』の役割と、メディア論に接続せざるを得ない重要な問題がある。ヒーローとアイドルの誕生も似たようなストーリーがあるんだよね。でもこの映画でヒーローの誕生には戦争遂行のための国債発行という強固な物語があるのに、アイドルには何があるだろうか、平和であっても満たされざる欠落感、美しく騙されたいという欲望、そういうことはわかってているんだ、夢を壊さないで、という「たおやかな恥じらい」ならば、まあ、いいかで終わるのに、厚顔無恥にも居直って恫喝する。一体、どうなっているんだと、哀しくなってくる。教育基本法の大きな柱は「公共心」でしょう。「愛国心」、「会社愛」なんて小さい、というより位相が違う。常に個人が自立しようとする不断の営為の中でしか公共心は見えてこないものでしょう。そうでないと他者と出会わない。公共性とは他者との関係性で浮かび上がるステージで、それらを排除した王国は所詮、長い目でみたら消えて行くものでしょう。そんな取るに足らぬものは無視して通り過ぎればいいのですが、目の前にやってくると無視するわけにはゆかない。
亡くなったオヤジがかって戦争で戦った○○連隊の戦友達と平和の時代でも会い続けたり、アルバムを大切に保管したり、勲章やら色々なものが遺されているのですが、僕はいまだに処分出来ずにいる。旧制中学校を出て商売を始め家庭を持ち、召集されて、大陸、南方と何年も戦ったわけですが、当時の戦いの中で戦友達と肩を抱いて撮ったツーショットなど、僕の知っているオヤジとは違う明るい表情が見受けられる。まるでそこに青春があるといった写真が散見する。戦場とはなんであるのか、
『父親たちの星条旗』の中で折角、英雄として帰還した先住民ピマ族のアイラは又戦場に向かう。恐らく、丸山真男、石橋湛山、吉田満、古山高麗雄、田中小実昌、山本七平、大岡昇平などなど、それぞれの戦場があったんだと思う。勿論、オヤジにとっても、でも、オヤジは僕には一切戦争のことは語らなかった。でも、僕が言葉で戦争反対みたいなことを言うとイヤな顔をしていた。良くも悪くもそこに濃密な空間があったことは間違いない。たとえそれが悲劇の共有であったにしても…。平和の時代ではなかなか巡り会うことのない“ものごと”があったということか、信じられる物語があったということか、そのような刻を完全に否定して提示出来る何を今、僕たちは持ち合わせているのだろうか、
自立した個人なんて虚構だ、そんなのは有り得ない、何らかのカタチでみんな依存している。それが国家だからと言って、組合だからと言って、「ヘタレ」とか「弱虫」だと罵ることが出来るだろうか、それに変わるべき何かを用意出来るだろうか、宗教より、共同体より、お金がより普遍性を持って安心を与えてくれるということではないか、
寂しいけれど、知人の町内会で電気もガスも止められた独居のおばあさんがいる。お金がないわけではない。富裕層とカウントされてもおかしくないのですが、お金を使いたくないのです。それで、止められたのです。おばあさんにとって、「お金」がたった一つの拠り所なんです。
確かに、白田秀彰『ほんとうの知的財産戦略について』のテキストで書いているように「議会制民主主義」も「自由主義経済」もいまだかって一度もフェアに稼働したことがないでしょう。だが、強迫的にかけがえのない生を要請されることもなく、交換可能性が限りなく100%近いとるにならない生であっても、それでも、やっぱし、「オレの生」と言える余白はある。その微細の爪楊枝程度の拠り所は言葉で説明出来ないほど、語るに値しないものかもしれないが、あるはずだ。そのような目線の低い社会を許容するなら、どのような体制であれ、OSであれ、受け入れる。
多分、アイロニストが生きられる世の中か、ソネさんのコメントで図書館に三木鶏郎の『三木鶏郎回想録』があったので、リクエスト、二、三日中に借りることが出来るでしょう。CDも附属でついているのです。
とんとん とんからりと 機関銃
あれこれ面倒 馬そうじ
ぴんたより恐いのは 前棍棒
ぶんなぐられたり 蹴られたり
トリローは軍隊時代にはかくし芸大会で当時の流行歌「隣組」を替え歌にして大いに受けたという。(武田徹著『NHK問題』より)