葉っぱでアフォード♪阿呆ダンス♪

オンライン書店ビーケーワン:ぼくもいくさに征くのだけれど
 隣が新築建造中なので、近隣問題など、思っても見なかった色々な事態が発生したりして、年末なのにバタバタしてしまっている。一昨日、病院の予約が入っているのに昨日と勘違いしてキャンセルになってしまった。インフルエンザの予防接種もする予定だったのです。月曜日に再度予約の手続きです。老母と同居だと風邪のことが気になりますね、まあ、そのうっかりミスで病院へ行く時間がぽっかり空いて、あるところから緊急の書評依頼があったのですが、余裕を持って受けることが出来ました。
 でも、やはりプロの編集者の方は違いますね、初稿1600文字を、遠慮なく批評してくれたもんだから、僕も俄然、元気が出て、三、四度のメールでのキャッチボールをしたのですが、最後に投了した最終稿は自分でもびっくりするほど、良い意味で“わかりやすく”なっていました。
 僕の書くものは、このブログでもbk1の投稿書評でも、持って回った言い方、わざとアイロニカルに物語ろうとしるあまり、逆説的な表現が多く、偏読、誤読を誘うような文章で、むしろそれを喜んでいるようなイヤな臭みもある。自分でも嫌みたらしいなぁと思いつつも、なかなか、そんな濃い化粧っていうか、堆積した垢を削ぎ落とすことが出来得なかったのですが、プロの編集者の方の巧みな誘導で、それが出来たような気がするのです。何か、凄く「さっぱりした感じ」です。
 来年度にその雑誌が発売されたら、販促も兼ねて広報いたします。まだ、原稿を送ったばかりで、実際に活字になるかどうかは、何とも言えないですからね。ただ、たったの一日でしたが、自分の書くものの欠点がはっきりと見ることが出来ましたね。bk1の仲間たちと出した書評集『熱い書評から親しむ感動の名著』では、他の人のものは知りませんが、僕のはリクエストがあってすぐに書いて、それからほとんど直さなかったのですが、掲載された僕の書評むと冷や汗もんです。
 そんな流れの中で昨日アップされたばかりの『武田徹オンライン日記 生卵』を読んだのですが、『アフォーダンス理論』について書いている。そう言えば僕のブログは最初の表札が『葉っぱでアフォード♪阿呆ダンス♪』だったのです。二年前にこのブログでこんなことを書いている、

僕が最初にブログを始めたのは“葉っぱがアフォード・阿呆ダンス”で、今、こちらに引越し中ですが、最初のエントリーが茂木さんの『心を生みだす脳のシステム』(NHKブックス)をネタにしていました。
《実際、その倉庫がある敷地は、「石を投げることをアフォードする」という意味では、完璧と言っていいデザインだった》
そして僕自身、初心の気持ちで気恥ずかしいことを書いている。(これはその一年前だから三年前)
《初体験のブログで悩んだ果てに、この一文で、決心がつきました。読む人がポジティブな気持ちになって踊りたくなるカキコが出来ればそれでいいと思いました。そんな洒落で【阿呆ダンス】とつけたのです。見る阿呆も同じなら、踊らないとソンですものね。恥はかきますけれど、そうやってスキルの向上をはかりたいと思います。この概念はアメリカの心理学者ジェームス・ギブソンから由来するらしい。認識とは、脳の中に閉じたプロセスではなく、環境と脳、身体の一連の相互作用の中で生じてくるプロセスであると考えたのです。アフォーダンス(affordance)は環境が生体に対して持つ<行為の可能性>なのです。afford(提供する)を名詞化したものです。インディファーダーの石投げは痛いけれど、このブログの石投げは大歓迎です。茂木さんの 『クオリア日記』も石を投げたくなるほどの面白さです。》

武田さんの日記でその初心のことを思い出してしまった。印象批評に堕する人文学でも、書斎科学でもなく、自明である大前提をも覆すことも厭わない「自然科学」にもっと意識的にアクセスしなければならないと、それにしても僕の自然科学に対する知識はあまりにも貧しい。来年はそれが課題ですね、又、ブロブの表札を『葉っぱがアフォード♪阿呆ダンス♪』に戻そうかなぁ…。

歴史的新事実の発見であってもそれまでの蓄積の延長上に演繹的に新しい結論が出されているのであって、前提を完全に覆しているとは言いがたい。その点、自然科学は前提を覆す、というか前提(たとえばニュートン力学)よりも説明範囲の大きな新理論(たとえば相対性理論)がでることがある。そこは人文学は素直に認めるべきで、もっと方法的にどん欲であるべきだろう。アフォーダンスを取り入れた人文学があってもいい。とくに文学、とくに詩学みたいな領域は結構変えがい?があるのではないか。

 まさにそうですね、そこで、武田さんは稲泉連『ぼくもいくさに征くのだけれどーー竹内浩三の詩と死』を紹介しているのですが未読です。チェック♪、環境による認知に関して意識的であらねばならない、それは又、再帰性の問題につながる。そのあたりが僕の関心どころなのでしょう。