「正しさ」が 胡散臭くても…、

オンライン書店ビーケーワン:ダーウィンのミミズ、フロイトの悪夢
 毎日新聞1月6日号の『政治に思うートップランナーからの提言』で保坂和志がインタビューされている。直接に政治を語るなんて、珍しい。
 『「正しさ」の先にファシズムの影』と保坂さんに相応しからぬ大仰な表題であるが、まあ、その通りでしょう。世の中は言葉を変えなければ変わらないって言うのも、その通りでしょう。
 政府・与党に対して同じ語り口で野党は喋ったらいつまで経っても万年野党になってしまう。しかし、言葉を変えるのは確かに難しい。

 言葉を変えるのは時間が掛かるものだけど、政治は短期間で答えを出すように人に仕向ける。政治にかかわる人は皆、自分が正しいという立場でしかものを言わない。間違っているかもしれないというためらいが、政治の場では容認されない。例えば北朝鮮を悪者にしている限り、自分の正しさをみじんも疑わないで済むわけです。ファシズムって正しいと思って動き出す時に起きてくる。これ、僕の定義なんですけど。迷ってふらふらして戸惑ってる限りは起らない。小説家のやり方は、それでしょ。

 上山和樹の『「ひきこもり」だった僕から』を読了。本書はまさに戸惑いつつ、単なる、自己語りにもならず、自分の「徴」を聖域において批評を許さぬ元引きこもりとしての説教にもならず。むしろ、引きこもり者の持つ個人的価値観で社会を再デザインする方途もあるのではないかと、時には視点を逆照射してみる。
 それは、今ある社会、世間に認知されている価値観(規範)の問い直しでしょう。本当にその正しさは自明であるのか、そのことを常に検証すことによって、ふらふらするかもしれないが、そんで、いいんだと思う。
 でも、既得権益を守ることが正しいことなんだというアナウンスなら、暮らしレベルで、まあ、しょうがないかと、ナットク出来るんだけれど、そのような俗情を裡に隠してダブルバインド的「滅私奉公」という正義を振りまわされると、腹立たしい。
 そして、又、守るべき既得権益も持ち合わせていない人びとが、帰属すべき拠所がない場合、保坂さんの言う「正義」を語らざるを得ない局面があるんだという切実さ、一昨日、予告編『ダーウィンの悪夢』で「兵士になることが希望」であるようなシーンがあったが、そのような状況を、幸せにも既得権益がある人びとは心底からの共感は無理かもしれないが、理解すべき想像力は持つべきだと思う。