第一歩目の検証

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)お父さん頑張る―痛快!主夫業 (ノベル倶楽部)山口瞳「男性自身」傑作選 熟年篇 (新潮文庫)
 下のエントリーで助走のための過去データをアップしましたが、僕自身の脳内整理にためにも一歩ずつ検証してゆきます。
 ◆一歩目の再読は『男性問題の「バックラッシュ!』だったのですが、みなさん興味あるコメントを寄せてくれている。
 まず、ichikinさんが紹介してくれたのが、赤木智弘さんのブログ『深夜シマネコ』で、ここから赤木さんを知るわけです。このエントリーで僕は何故、『男性問題』が表面に表れないのかと疑念を書いている。図書館に行っても『女性問題』の棚はあるけれど、『男性問題』の棚はない、どうして?
 ぴぴさんからの反応は「男性学の分類番号もちゃんとありますよ〜。日本十進分類法の新訂9版(1995年)から、男性学の番号が追加されました。」、さすが、専門家です。でも、なかなか目に触れないですね、先日、ウラゲツさんからの情報でジュンク堂新宿店で「反戦・平和棚」が設けられたと聞きましたが、ジュンクさんで、『男性問題』を設ければ、そちらの方がインパクトが強いと思うのですが、いかがでしょうか?
 ◆宦官について、てるてるさんから非常に示唆に富むコメントをもらっていますね、宦官については勉強不足ですが、『男性問題』と『宦官』をキーワードにして論じられた本があれば読んでみたいですね。

中国と韓国では、宦官になるための手術の仕方が違うそうです。また、中国では宦官は結婚できないが、韓国では結婚することが義務になっていたそうです。宦官はトルコの宮廷にもありました。宦官になると、女っぽくなるように言われることが多いけど、武術の達人もいたし、鄭和のような人もいた。しかし、だいたい、悪者のようにいわれることが多い。宦官などは、歴史的に第三の「ジェンダー」だったということでしょうか?

 そこで、僕はかようなレスをしている。《染色体レベル、ホルモンレベル、形態レベルなどで、女性、男性の区別もそれそれの位相で違ってくる。宦官の存在は例えば司馬遷は腐刑を執行されたわけですが、玉はそのままで、竿をカットされた場合は精子の生産は出来るのだから、形態のレベルでは男として認められないが、染色体、ホルモンのレベルでは男として認められる。韓国で結婚が認められたということは、多分、竿だけを切って、○橋○泉のようにパイプカットと同じようなレベルで考えられたのではないでしょうか、どうも、宦官は調べてみないとわからないが、単なる形態レベルで記名されたものではないかと思ってしまう。司馬遷の「史記」にしろ、宦官政治にしてももの凄いエネルギーでしょう、多分、玉は二個とも維持されていたのではないでしょうか、それがあるからこそ、幻の剣がふるえて武術の達人も出たかもしれませんね、まあ、僕の場合はホルモンレベルだから、そのようなエネルギー(欲望)が限りなくゼロに近いのです。》
 なんか、アドリブみないなレスで、ちゃんと検証しなくてはならないですね、まだやっていない(苦笑)。
 しかし、本題はあくまで、赤木さんのこの石投げです。「深夜のシマネコBlog: 『バックラッシュ!』を非難する」、ここから、半年に渡る長い道が、何とか切れないで続いたのです。

であれば、「反バックラッシュ」の論理が解体するべきは、そのエネルギーの発生源であり、それに対して「男女平等は正しいのだ」といったところで、議論は成立しえない。

 そうなんです。このエントリーの頭で、僕は教養力を伝家の宝刀みたいに書いていますが、赤木さんはそのような教養(僕の意味する教養と多少ズレがありますが、僕の中にも赤木さんの中にも象徴として丸山真男があったことは間違いない)の無力さをイシューして論を立ているわけです。
 今、言論市場で○○力みたいな物言いが流通していますが、もし、「平和力」という言葉があるとしたら、「知」だけでなく「情」でアクセスしないと、「戦争力」に抗う「平和」は実現が困難であろうという至極もっともなことを赤木さんは言わんとしているのだと思う。
 エネルギーの地平に降り立つ考察は「宦官問題」にも繋がる気がする。

まずは言葉の定義をしておきたい。
 ここまでで既に何度か使っている「弱者 or 強者 and 男性 or 女性」について。
 単独の意味的には文字どおりなのだが、それらの関係については「SocioLogic」の中の人が提唱する「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」を採用している。
 すなわち、強弱の順位は「強者男性」>「強者女性」>「弱者女性」>「弱者男性」である。ただし、「>」は、強弱の関係性のみを表す記号であって、その間の数量的な等しさを表すものではない。
(数量的な部分に対する私の実感としては「強者男性」>>>>>>「強者女性」>>「弱者女性」>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>「弱者男性」ぐらいであるように思う)
 そして、この順位を確定するための要素として、私は「仕事」と「家庭能力(≒家事+出産)」の2つを評価する。
 この2つにおいては、プラスマイナスとも「仕事が強」「家事は弱」と考える。
 「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」>「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」
 ここで男性側の家事の要素をまったく評価していないことは、ひとまず頭の片隅に入れておいてもらいたい。

 赤木メジャーでは、僕は典型的な弱者としてカウントされますね。でも赤瀬川原平老人力と言って楽しんだように、僕の中に弱者であることを楽しむ、卑下慢のようなものがあることは否めない。でも、そのようなネタ的な処理方法について赤木さんは腹立たしさを感じると思う。ビンボー、弱者はネタではなくマジな問題なんだと…。

宮台は「すべてのバックラッシュの背後にあるのは、過剰流動性による不安だ」と述べる。しかし、過剰流動性が不安であるのは、あくまでもバブル以前の男女にのみあてはまる。「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」の図を持ち出すと、こういうことになる。
(「強者男性」←→「強者女性」)>「弱者女性」>「弱者男性」
 このカッコ側、つまり強者男性と強者女性の間にしか過剰流動性は存在していないのである。
 まず最初に私はこの本の失敗は「さも、物事を論理的に読み解けば、男女平等に対する誤解は解ける」という教養主義的観念のかたまりでしかないことだ」と述べた。
 この本に登場する、ほぼすべての論者に言えることだが、彼らは八木秀次をはじめとする「バックラッシュを推進する学者や論者」などに標準を合わせて、彼らを論破していくという形式の文章を書いている。
 しかし、そのことは同時に、実はこの『バックラッシュ!』が「「本に名前が出るような強者男性」VS「本に名前が出るような強者女性」」という、まさに「流動性の中での戦い」でしかないことを意味する。そしてそれはまさに教養論の傲りであり、そのことが本来のバックラッシュの主体たる、こうした知的上層階級ではない「弱者男性」を無視する結果を招いている。

 流動性の実体に関して今の現場からの赤木さんは検証して何とか、実効的な仮説を構築しようとしているのが、見て取れる。次のステージをマニフェストする。

結局、バックラッシュを封じるためには、弱者男性をどうにかするしかない。
 それこそがネクストステージであり、唯一の男女平等の道である。フェミニストはもはや強者女性の論理でしかないウーマンリブを捨て、弱者男性にスポットを当て、正しく男女平等を推進するべきなのだ。
 ここでもう一度「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」を持ってくる。
1、「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」>「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」
 これを男女平等にするためにはどうするか。
 まずはこの図において「家事と仕事の不平等」が起きているので、これをフラットに変える。
2、「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」
 そして、男性に「家事」の評価を適用する。
3、「強者男性(仕事+ 家事-)」=「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事- 家事-)」
 仕事と家事のプラスマイナスによって、強者男性と強者女性、そして弱者女性までが平等となる。では、残る弱者男性はどうすればいいのか。答えはもちろん。
4、「強者男性(仕事+ 家事-)」=「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」=「弱者男性(仕事- 家事+)」
 男性の家事労働を正当な仕事として認めれば、ここに真の男女平等が実現する。
 この説明を見た時に「それは今までの男女平等主義者の主張と全く同じではないか」と思うかもしれない。
 ハッキリいえばその通りで、男女平等論者の主張は別に間違ってなどいない。
 しかし、実際に行われる男女平等の方法論と主張する方法論の間はズレまくっている。
 ウーマンリブは女性を仕事に駆り立て、社会参加を主張することによって、男女平等を実現しようとした。しかし、正社員の立場が利権でしかない現代において、それは「仕事をしているから偉いのだ」と主張する強者男性とまったく同じ論理をウーマンリブ側が持つことを意味する。
 「お茶を汲むために会社に入ったのではない!!」と主張しながら数十万の月給を得る強者女性に対し、繁雑な作業を時給数百円でやらされる弱者男女は苛立つのである。
 そして、数十万の月給を得る強者男性は、近くにいる強者女性(共働き)、もしくは近くにいる弱者女性(専業主婦)と結婚するのに対し、数十万の月給を得る強者女性は、近くにいる強者男性とは結婚するだろうが、じゃあ弱者男性と結婚するかといえば、そのモデルはまったく見いだすことはできない。
 先程の「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」の図の3と4を再び見返して欲しいのだが、この「弱者男性の家事スキルを評価するか」というわずか1点の違いしかないこの両者の間には、実はとてつもなく絶望的な距離感が横たわっている。そしてウーマンリブにかまけたフェミニズムは、誰も「弱者男性を専業主夫として扶養しよう」などとは決して言い出さないのである。
 男というのは、よくも悪くも「仕事をして、家族を養う」ということを目標に仕事をしている。それは弱者男性も同じことだ。いつかは仕事をして、家族を養いたいと思っている。だから苦しい。

 でもね、主夫業に専念して、夫婦生活、家族設計を上手にやっている人達もいますよね、まあ、それが、当たり前の時代ではないけれど、仕事も家事も同じ回路の社会参加であるし、むしろ、子育てが一番大事な社会参加とも言えるわけで、そうは言っても僕は家事に関するスキルは一生懸命やってはいるけれど、なかなか向上しないですね。どちらにしろ、男の仕事場という雑誌名があったような気がしますが、その中に、家事が当然、上位でカウントされるべきでしょう。勿論、男女を問わないですけれど…。
 子を産む機械なんて、失言がありましたが、男は子を育てる機械のような切り返しがあっても良かったのではないかと思いました。
 参照:自分の軸を定めたい - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜