第九歩目の助走「うちの子に限って…」

 leleleさんのちんこ祭りの画像です。すごい、迫力ですね、と言うことで、九歩目の助走『宦官制度を考える?』は暫し思考停止です。(笑い)
 しかし、宦官制度って、出来るだけ財の平等、権力の分散、機会の平等を人工的に担保しようとする、もの凄く政治的な営為でもあるわけです。少なくとも、二世、三世と権力の移譲を防げる効果はある。
 最近、時々思うことは、家族制度って、人間社会にとって自明の制度であろうか、でも、もしそうでない社会デザインを思考実験した場合、人々は何に拠り所を求めるのだろうか、
 笹川良一みたいに「世界は一家、人類は皆兄弟」と言いますか、でも、そうは、言いつつ、日本の家族制度を特殊、自明とした人類は皆兄弟で、「笹川家」と「世界は一家」の家と、どう違うのだろうか、
 かってのSF小説の題材でもよくあった、今でもあるかわからないが、近未来社会において、出産はすべて試験管ベイビーで、「誰の子ども」っていうのはあり得ない、子育ては「世界」でもいい、「人類」でもいい「国家」は問題だから、「国連」のような「公」システムが揺りかごになって教育をする。そんな物語がありましたよね。
 とてもスッキリしたシステムでもある。今、現在問題になっている色々な問題系が解決出来るかもしれないが、別のトンデモない問題が露呈するだろうね。何が最適化かは、無数の人々の無数の生き様とかかわるから、一刀両断で社会システムを指し示すことは危険でしょう。
 でも、諸悪の、それは悪でもなく正でもあるわけですが、「家族制度」が「希望」の源泉でもありつつ、「絶望」の源泉でもあると思う。
 ある問題のやりとりをしている時に、子どもをダシに応答されると、僕は何にも言えなくなる。でもね、その子どもが「<私>の子ども」ではなく、「<他者>でもある子ども」なら、僕は頭を垂れます。でも<私>の子どもは……、と言外に特別視して、ダブルバインドを行使する。
 いじめだけに限らないが、「うちの子に限って、そんなことはあり得ない」って言われると、何にも言えなくなりますね。
 まあ、ちんこにはかわりがないのです。みな兄弟です。