詩でしか書けないものがあるのだとすればそれは何か。

 第十歩目の助走は『自己表出はソウロウ文?他者を歓待(表現)? 』ですが、

ヒグラシさんが、社会に訴えるには(1)「声をあげる」(2)「論理にする」(3)「説得する」という三段階があると端的に書いていました。(2)から(3)の問題は「表現とは何か」に関わることでしょう。表出を恥ずかしいと思う心音から出発して、それでも、切実な叫びを発信する人たちがいるんだと言う受信装置、アンテナを「表現者」たるものは鋭敏に保っていなくてはならない、でも、ヒグラシさんのコメントにレスしながら、やっぱし難しい課題だと思う。

 大きなテーマは「表出」と「表現」を巡る問題で、それは「詩」と「散文」の問題でもあるのです。高橋源一郎『ニッポンの小説』(文藝春秋)において、吉本隆明の『詩学序説』(「文学界」2001年2月号所載)を引用している。《…言語の〈意味〉よりも〈価値〉に重点を置いて描写されるものを「詩」と呼び、〈価値〉よりも〈意味〉伝達に重点が過剰に置かれた描写を散文と呼ぶというほかはないとおもえる。これは日本語の不可避の運命だった。》ー390頁ー
 上のヒグラシさんのコメントは赤木さんの『バックラッシュ!』(双風舎刊)を巡るもので、多分、赤木さんは、「詩」(価値)を叫んだんだと思う。それに対して多くの論者達は「散文」(意味)で応答したから、噛み合わなかったものと思う。
 高橋さんは本書で、Nさんのこと(中原昌也でしょう)を書いているのですが、Nさんの小説には〈意味のない〉ことばかりであるが、たった一つだけ〈意味のあること〉を書いている。それは「小説を書くことがイヤだ」、「労働としての小説がイヤだ」ということなのですが、そう言えば過去ログで雑誌で読んだ原稿で稼ぐ大変さを書いた中原さんのルポ記事を紹介した記憶があります。

 小説を書く、ということの中に、とりわけ、資本主義社会下で、生計を立てるために小説を書く、ということの中に、苦役としての労働が発見される。あるいは、労働の本質をかいま見る。
 Nさんが、小説を書くという行いを通じて発見したのは、そのことだ、とぼくには思える。
 ほとんどの作家が、気づかずにすましていること、あるいは、気づいているのに、見ずに通りすぎようとしていることを、Nさんは見つめる。そのことだけが、書くべきことではないのか。なぜなら、それを読む読者たちも、その「意味のない労働」や「苦役としての労働」にうちひしがれているからだ。
 だから、Nさんは、そのことを書く。
 だが、読者は、Nさんの「小説はイヤ」を喜んで受け取ろうとはしないだろう。
 
 労働者の解放を唱えて、工場や農村に乗り込んだ、初期の社会主義革命の運動家たちもまた、そのことに直面したのだ。労働者や農民たちは、彼らの説得に耳を貸さなかった。事実を知りたくなかった。事実が過酷すぎるために、夢を見ていたかったのだ。そして、その事態は、世界が飛躍的に豊かになったとされる現在も変わらないのである。ー(388〜9頁)ー 

 赤木さんの言葉がスムーズに受け取れられない困難さに似たところがあるではないか、そんなことを思ってみました。
 かぜたびさんが更新した『政治か個人かという問題ではなく』は、赤木さんの立ち位置を明解に示してくれますが、この問題は『現代の貧困』だけではなく、表現の根幹にかかわる問題でもあると思う。武田徹オンライン日記の『垂直・水平』(2007年1月15日)で、詩でしか書けないものがあるのだとすればそれは何か。と書いているが、そのことについて僕たちは鋭敏であるべきだと自省しています。
 参照:再び赤木さんへ - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜