もうじきブログが千日

詩とことば (ことばのために)
 詩と散文が違うとしたら、ブログは散文に近いものでしょう。でも以下の「詩人のことば」を読むと「詩のようなブログ」はあり得るのかと思ってしまうけれど、そのようなブログもあるにはある。でも何となく紹介ははばかれるので、時たまこっそりと、訪問する。
 もとよりコメント欄も、トラバ欄もないから、他のブログとは違ったモードで読んでいますね、この人がある雑誌で連載コラムを書き始めたのですが、当然、ブログに雑誌のコラムのタイトル「現代生活のなかの絵画」を紹介しているのかとブログ内をサーフインしても見あたらない(どこかに、こっそりと小声で書いているかもしれませんが)。
 連載雑誌のプロフィールにも、ブログ名の紹介はもとより、最小限の情報しかアップされていない。編集長のストイックな編集方針なのです。だから、僕はこっそり書いているわけです。こっそりリンクしているわけです。

 詩は、読まれることをほんとうには求めていない。人に読まれないからこそ、詩は生きることができる。それは少しもうしろ向きの考えではない。
 読まれないことは、わかっている。そのうえで、考える。もし読まれたら、どうするのか。突然、誰かが路地裏の店に入ってきて「見せてください」といわれたとき、腐った林檎を出すわけにはいかない。そのときのために、少数の人のために、きびしい目をもつ人のために、はずかしいものは書けない。用意だけは、しておかなくてはならない。詩は個人のことばとはいえ、その個人のことばであることに甘えない、しっかりしたものを書いておかなくてはならない。そのために、ものを考える。ことばを吟味し、新鮮な、意味のあるものにしておく。それが心得であると思う。ー荒川洋治『詩とことば』ー

 小島信夫の『寓話』について書いているこの人のコラム「虚構の人物と共に長い時間を過ごすこと」を読むと、この人にとってブログは「詩」というより、「手紙」なんだと思ってしまう。

 手紙は、日記や、あるいはもっと一般的な文章と違って、明確に「宛先」があり、書く人はあらかじめそれがその人によって「読まれる」であろうことを予想し、期待しつつ書いている。もっと極端に言えば、それが「書かれている」のと同時に、書かれたそばから、「想像的な誰か」によって読まれているという感覚、つまり、書くことが、そのまま「読まれていること」であるかのような感覚さえ、手紙を書く人のなかに生じさせるのではないだろうか。だから、書かれた手紙は、たとえ投函されなかったとしても、ただ書かれたというだけで、それを書いた人に一定の満足を与えるのではないだろうか。

 これは、身にしみてわかります。本数は少ないけれど、そのような長〜い手紙をよく書いたものです。投函した大部分は最後まで読んでもらえなかったでしょうね。でも、それによって僕の中に何かが一応の収まりを持った。

 こうして書いてみると、手紙とは、ただ「宛先」があるだけで、「作品」ととても近いもののように思える。目の前に、すぐ反応を返してくれる人がいないところで考えられ、形作られる「作品」は、その反応の「遅れ」によって(リアルタイムの反応を期待しないことで確保された時間の広がりのなかに)、自然なコミュニケーションとは違った他者との交通の回路を開こうとする。作品(をつくること/みること)は具体的な「宛先」をもたない分だけ、手紙よりもより多くの「遅れ」や「淀み」を(孤独に)抱え込んで持ちこたえることが必要になるし、それを可能にもするだろう。

 僕のブログはもうじき、千日になろうとしている(942日?)。「詩」でも「散文」でも「手紙」でもない、だからと言って「日記」では収まりの悪いものがあります。
 だから何だ!と言われても、「更新途上のブログ」であるとしか言いようがない。いまだにブログがようわからないのです。今日、本屋さんを覗いたら学研のムック本『500円でわかるブログ』があったので手に取ると重版ものですが、僕の旧ブログ名「千人印の歩行器」が紹介されているわけですが、もうあれから、数年が経過したのに、余計、わからなくなりました。
 youtubeの登場がもっとも大きいですね、最近、何となくやっていることは、「メディアミックス」と言うか、様々なネット情報を自分なりに編集して、自分なりに楽しむということでしょうか、そのような作業場として、このブログがあるという「大人のためのネット遊園地」かな、「学びの場」と言いたいのですが、そう書くと、プレッシャーになりますから、「ゆるゆるの場」と思って下さい。