秒速五センチの遅れた手紙


 そぼ降る御堂筋を、とぼんとぼんと遅い足取りでテアトル梅田で上映中の『秒速5センチメートル』(新海誠監督)を昼間見ました。
 そうか、今は春休みなんだ、若い男の子たちばかりで、七分程度の入りでしょうか、友達同士が多いのに映画が始まると寂とした雰囲気になりました。
 山崎まさよしOne more time,One more chance のモードなのか、女の子は数人でした。おじさんも数人、おばさんはゼロ。やはり、男の子たちの心を掴む映画なのでしょうか。とても、哀しい映画でした。
櫻が舞い落ちる速度は秒速5センチ、でも、それは早さではなく、遅れなのでしょう。段々遠ざかる。そして見えなくなる、消えて行く。だが、失われた痛切さに気づいた時、そのことは、どうしようもない、「やるせなさ」を呼び起こし、秒速5センチの速度で追いかける。空に向かって、
 秒速5センチの「歩行」は瞑想を強いられる。岡崎武志の『読書の腕前』(光文社新書)を携えて京阪電車に乗り込んだのですが、岡崎さんの引用で詩人長田弘(『読書のデモクラシー』岩波書店)のこんな文章がありました。

「歩くということは、じぶんがじぶんからぬけだしてきた感じをもって、いろいろなキズナからときはなれた感じをもって、一人の自由な孤独な人間となって歩くということだ」
「歩くことは、あなたが見知らぬ人びとや見知らぬものや自然を見てすぎながら、その人たちやものや自然から、言葉や形や色でもって語りかけられるということだし、つぎに、あなたのほうでもそれらに語りかけないわけにはゆかないということだ」

 そう言えば御堂筋は多くのものを見せてくれました。新海誠の「秒速五センチ」は「手紙」について考えさせる。下で引用した古谷利裕の文章を逆回しします。

例えば、実際に顔を合わせて話すことに比べて、誰かに手紙を書くということには、僅かながら「迂回」のようなものが生じる。誰かに向けて、誰かのことを考えながら手紙を書く時、実際に目の前にいる相手と会って話すのとは違って、自分の頭のなかにいるその人へと「私の意識」が問いかける時、ある程度その反応が予想されなくてはならない。勿論、目の前の人物に語りかける時にも、相手がどのような人物であるかということが想定された上で、ある配慮の上で発語がされるだろう。しかし、目の前にすぐにそれに対し反応してくれる人物がいない場合、その反応を期待できない「配慮」は自分の頭のなかで淀みを生み、一瞬そこに思いが留まる。ー『風の旅人・24号』よりー

 そして、その留まりが、「秒速5センチ」の歩みなのでしょう。その遅れが、少しだけ余計に相手のことを考えざるを得ない事態を呼び起こす。降り積もった遅れが物語(虚構化)を生む。
 古谷さんは、この「少し余計に考える」ことが、実在する相手を少しだけ虚構化すると書くがその通りだと思う。
 この映画の痛切な哀しみは、追いかけてもどうしようもない、追いつけやしない、どこにもない、「虚構化された何者か」を欲望する若者がジジィにとっても他人事でない哀しみとして感応するからでしょう。
 タマには宛先のない手紙を書きたくなりました。まあ、このブログがそんな誰かに宛てた、そして見えない誰かに届いたかもしれないという妄想めいた虚構を生むとしたら、時速5メートルで、宇宙遊泳する歓びに似たものを味会うかも知れない。
オンライン書店ビーケーワン:読書の腕前オンライン書店ビーケーワン:風の旅人 Vol.24(2007)
 おまけ:ここまで、生かしてもらって充分…高田渡のインタビュー動画です。
 ♪歩き疲れては草に埋もれて寝たのです♪