詩と小説の「戦争」

 ◆堀川正美が詩うように「時代は感受性に運命をもたらす」(詩集『太平洋』より『新鮮で苦しみおおい日々』より)ものであろうから、「いじめ」に対する僕たちの感受性は表層で論じられないものがある。
 だからと言って「いじめ」、「暴力」を「詩のことば」で語ろうとすると、都合のいい誤読を呼んでしまう恐れがある。詩人はこの時代にあっては「沈黙」を強いられるのかもしれない。
 政治的に利用されるよりは孤高の聾者として「ノン」を発信し続けるしかないのだろう。
 ◆荒川洋治の『詩と言葉』(岩波)にあって、先日紹介した高橋源一郎の『ニッポンの小説』(集英)においても、「詩が危機に瀕している」状況を記述しながら、結局「詩のことば」でしか、「人間を捉えることが出来ない」という信念がある。高橋にとって、「詩のことば」は「近代文学」を乗り越える触媒として、これからの現代小説、21世紀の小説を模索する冒険行になくてはならない「ことば」だという確信はあるみたいですが、はてさて、実作として困難な道がある。
 ◆僕は文学者としての石原慎太郎を一定の評価をするが、そこに散文家としての居直りを見る。少なくとも、大衆小説家であり得ない、あることを嫌う、石原は、にもかかわらず、圧倒的な大衆の支持を勝ち取る政治家として「強烈なメッセージ」を発信し続けている。
◆この世界と数行のことばとが天秤にかけられてゆらゆらする可能性(谷川雁*1
 石原の散文性に抗しすべきは「詩のことば」なのはわかる。だけど、失語に瀕している詩の言葉が音となって人々を共振する感受性が摩滅しているとしたら…、
 それを摩滅と理解さいないで、新しい人間の更新という理解も成り立つが、、 それでも今ある散文の言葉でもの申しても、石原はたじろかないだろうという強い壁を感じる。
 だけど、石投げとしての詩の礫は「瞬間の王」は、時代が生むものでもあるのでしょう。作為として捏造出来るものでもない。
 ◆『詩と言葉』の『詩と小説の「戦争」』の頁から、
《科学は不可能性と可能の区別を教へる。然るに詩は不可能のことをイメーヂする文学だから、科学の発達によつて当然亡びる。反対に小説は可能の世界を書く文学だから、科学と共に永存し得ると。》何か、今の時代でも政治を声高に語る科学者、小説家らしい言葉ですね。「詩は滅びる」と述べた菊池寛なのです。それに噛みついた萩原朔太郎の言葉を紹介する。

 菊池氏の説によれば、詩は不可能を夢みる故に非科学的であるといふのであるが、不可能を夢みることは、逆に却て科学それ自体の出発なのだ。例えば飛行機の発明は、鳥のように空を飛んでみたいといふ、人間の「不可能へのあこがれ」から発足した。(……)つまり一言でいへば、科学とは「不可能を可能にすることの願望」に外ならない。詩がロマンチックの文学であるといふならば、科学の精神はもつと本質的にロマンチックである。科学の新しい進歩は、今日の不可能を、明日の可能に現実にすることのイデアにかかつてゐる。科学にしてももしそのイデアとロマン精神を捨てるならば、その進歩は永遠に停止されてしまうのである。

 成る程、「クオリア」を解明しようとする茂木健一郎は詩人なんだ、そうやって、回りを見渡すと、「意味の病」にどっぷりと浸かった散文家、ニセ科学者、ニセ占い師、政治家は常に答えを用意しているから、人々は欲望の一票を投じるのでしょうね、投じやすいのでしょうね。でも、茂木さんはそれとは全く違う位相で、「瞬間の王」の言葉を紡ぐかもしれない。五月に梅田望夫と共著で『フューチャリスト宣言』が発売されるみたいですが、フューチャーリストとは「21世紀の詩人」のことなのでしょうか?

*1:荒川洋治著『詩とことば』より、松本健一著『谷川雁革命伝説ー一度きりの夢』を開く。そこに現れる谷川雁のことば。