幕末いじめられっ子と佐平次

◆とらかれさんが、『いじめと現代社会』の著者内藤朝雄さんのインタビュー記事を公開されましたね、第一回目第二回目、それから第三回目をさっそく読みました。
 「生態学モデル」で、ビオトープの例証には頷いてしまいました。
 インタビューアーの荻上さんが内藤さんとこんなやりとりをしていましたね。

荻上:学問を志している人には、結構多そうですね。例えば一度傷ついた全能感を、論理を手にすることでアップデートするというようなパターンも。しかし内藤さんはそれを自覚してやっていますよね。
内藤:傷ついた全能感が出発点なのではなく、傷ついたから全能感という二流の餌をガツガツ喰うという構図です。全能感というのは、根本的にみすぼらしいものです。幸福に生きている人は、全能感のにおいをさせないものです。平凡で、ぱっとしない人生を喜んで生きているものです。逆に卓越したことをこれみよがしにやっている人はダメな人が多いですね。

 本論とはあまり本筋ではないところでしょうが、何かここで、考え込んでしまった。僕は論理を手にしたくてもなかなか出来ない直感オヤジなので、「論理の陥穽」ということにどうしても拘ってしまう。内藤さんの生態学モデルは図式化までしてくれ、論理的で説得力がある。本書における「論点抱き合わせセット」や、アッパー系天皇、ダウナー系天皇、隆起一貫型超越性、瀰漫浸潤型超越性とか、初めて聴く仮説概念が開陳される。それによって僕の脳内も整理されるのですが、でもあまりにも完全無欠な理論構成のオポチュニズムに危惧を感じてしまうことも事実です。
 学者が見事に処方した政策(処方箋)の言葉として受け取るべきなんでしょう。リベラリストの立ち位置から発信したものなんでしょう。でも僕はいまだに、リベラリストリバタリアンネオリベ新自由主義とリベラルの自由主義とどう違うのか、そりゃあ、テキストを読むと何のなくわかります。でも何か、感性としてはっきりと識別出来ないのです。
 公共性の重りを左にやったり、右に移動したりの量的差異で、質的差異ではないと思ってしまうのです。まあ、それは僕に、時として自民党民主党の区別に混乱してしまうことに繋がるのかもしれません。まあ、これは、僕の偽らざるところでしょう。と言っても僕も自称リベラリストですが、例えば石橋湛山が好きだったりする。でも、石橋湛山なら何となくイメージが浮かぶのです。でも、自分でリベラリストと言っても確固たるイメージがあるわけではない。
 荻上さんが引き出す内藤さんの家庭、学校での赤裸々な「いじめられっ子体験記」は読んでいてここまで、言ってしまうのかという、ある種、「世界を凍らせるもの」がありました。
 僕は「幸福に生きている人は、全能感のにおいをさせないものです。平凡で、ぱっとしない人生を喜んで生きているものです。」と言われるオヤジかもしれない。居直りではなく、僕の最大な欠点はルサンチマン的濃度が希薄だということだと思う。嫉妬心もあまりなく、すぐにどこかで許してしまう弱さがありますね。
 まあそれだけ、僕はズルイ男かもしれない。というより、単に面倒なことがいやなことだけかも知れない。
 ところで、このインタビューの記事で、ロールモデルについて語られていますが、僕は映画『幕末太陽伝』フランキー堺が演じた太鼓持ちの佐平次をいじめ対策のロール・モデルに押しますね、勿論、外務大臣としても最適でしょう。まあ、人気絶頂のどこかの県知事さんが、そんな佐平次になれるかどうか、これも元どこかの県知事さんが、そのなめらかな弁舌は佐平次そっくりでしたが、少し、腰が高かったですね。
 ◆取りあえず今すぐ出来ることは、水槽をどんどん、広くすることですかね、リアル場でそれは有限であることから免れない。ネットってある意味、妄想の水槽であれ、水槽を拡げますね、それが海まで拡大し、様々な国の人達とも交信する、その多元化チャンネルは、僕の子ども時代にはなかったのですから、そういう意味では、例え学校、家庭で閉塞感に苛まれていても逃げ場があるとは言えますね。濃い共同体復活で解決出来るという妄想よりはマシでしょう。
 内藤朝雄は自らを吉田松陰に重ね、世渡りに長けた現代の伊藤博文や若い仲間達に(彼らは伊平次なのです)バトンタッチしたいというそのための道具として、この作品が利用されれることを期待すると書く。
 そう言えば、この映画で高杉晋作石原裕次郎が演じていましたね。
幕末太陽傳 [VHS]