萱野稔人の「脱アイデンティティ」を読む 

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 萱野稔人『<政事の思考>が更新されましたね、・第九回“オメデタイ”言説』です。ポストモダン経由のクリシェ『脱アイデンティティ』というスローガンの胡散臭さを書いているのですが、知識人そのものの胡散臭さと言った「メディアリテラシー」も当然必要でしょう。知識人と言われることで、「再帰的に権威付けられたメディア」であるのは、大新聞、テレビ、マスコミと同じようなものかも知れません。勿論そのような雑多なものから黄金を見付だすのは、論理では太刀打ち出来ないから、感性を入り口にして、困難であるけれど、読み手として鍛えられながらも、感性的批評性の読みでしかないのですが、僕が判別の一つの基準にしているのは、その人の言説が、どのような動機、どのような文脈で述べられたのか、内容の正邪ではなく、その人にとってのその問題の切実さですか、「本音」という言葉を使えば、クリシェになってしまいますが、組織内で安定した背景、基盤を享受しながら、そりゃあ、「脱アイデンティティ」なんて、嘘臭くなってしまう。

いまの社会には、本人が望んだわけでもないのに「脱アイデンティティ」的な状況を生きざるをえない人がたくさんいる。長年フリーター生活を余儀なくされている若者たちもそうだ。かれらは、誰にでもできるようなつまらない仕事を毎日させられ、それを自分でも「くだらない」と思いながらも、「おまえの代わりはいくらでもいる」とプレッシャーをかけられ、そんなつまらない仕事にすら自分が必要とされていないということをイヤでも実感させられている。

 問題のありようは、ここなんだと思う。でも僕自身は「脱アイデンティティ」と言われるような生き方が好きであるような気がしますが、好きだからと言って、他の人に奨めようとは思わない。「脱アイデンティティ」の生き方が嫌いな若者に向かって「野垂れ死に」の美学を説いたって仕方がない。樽の哲人ディオゲネスロールモデルにするわけにはいかない。
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070309/p1
 樽の哲人になる覚悟のある知識人が「脱アイデンティティ」って言ってくれれば聴く耳がありますが…。山之内獏とは言わないけれど、せめて、故高田渡、故田中小実昌のような無頼を生きる人に「脱アイデンティティ」と飄々と言って欲しい。そうではなくて、小説家、評論家、芸能人、元論説委員などなど、いつの間にか大学教授の肩書きを手に入れて講義をしている。それで、「脱アイデンティティ」なんて、まあ、ブラックユーモアになってしまう。そういうことを萱野さんは言っているのでしょうね。
 そう言えば、過日、金子勝の「格差社会」の講演を聴いた折り、質問タイムで大学の非常勤講師をしている30代の人が手を挙げて窮状を訴えていましたね。専門職であっても「フリーター」でしょう。彼が問題指摘していたのは、高学歴であっても「ワーキングプア」の状況があると嘆いて、その処方箋を問うたのですが、有効な回答はなかったですね。
 今日、僕は京都に出かけたのですが、京都駅から乗り合いバスに乗り、運転席のすぐ後ろ、『読書の腕前』の岡崎武志さんがお気に入りの場所らしいですが、そんなことを思いながら久し振りのバス乗車を楽しみました。
 ふと、目の前に掲載されて短期バスの運転手の求人広告を何となくみたら、年齢制限は63歳まで、僕でも大丈夫か、大型二種の免許はどうせもっていないから、無理なんだけれど、事細かに条件を書いている。よほど優秀なバス運転のキャリアがないとダメだなぁと、給料のところを見たらなんと、時給が1000円なんです。こんな人命を預かる大事な仕事がたったの時給1000円とは、どこかの市バスの運転手の年収が一千万円以上と話題になりましたよね、同じ専門職でありながら、正規と非正規との格差は、こんなにも大きくなっているんだと、ビックリしました。

雨宮処凛の近刊『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)には、不安定な労働環境をつうじて脱アイデンティティ化させられているいまの若者の状況がするどく描かれている。雨宮氏は大学の研究者ではないが、そこでの仕事は、「アイデンティティ脱構築」などといって悦に入っている研究者に比べて、はるかに思想的でラディカルだ。

 「アイデンティティをつうじた存在証明」って、「コミュニケーションの領域」の問題なのではないか。他者からの承認です。東浩紀の新刊『コンテンツの思想』の神山健治との対談で、リアリティの問題なんですが、「萌え」とも言ってもいい。萱野さんがここで言う「アイデンティティをつうじた存在証明」って、「生きているリアリティ」を感じられるかでしょう。そして、二人が了解したことは、「コミュニケーションの領域」と「身体の領域」という作業仮説を行う。例えば三島由紀夫は「コミュニケーションの領域」を断念して「身体の領域」へとジャンプしたのでしょう。リストカットも同じような文脈にあるのでしょうか。恐らく、過剰なアイデンティティを求めること、脱アイデンティティにしても、「コミュニケーションの領域」を迂回して「身体の領域」に着地せざるを得なくなるのでしょうか。そのことを萱野さんは「暴力」を呼び込むと書く。「アイデンティティをつうじた存在証明」が閉ざされた「身体の領域」でしか、ありえないとしたら、あまりにも残酷です。
 もう4月1日でないので、本当のことだと思いますが、朝日カルチャー新宿教室で「東浩紀×萱野稔人」との対談があるみたいですね、ミクシィからの情報で、まだ詳細公開されていないみたいですが、もし、実現したらこのあたりの問題が論じられるのでしょうか。非常に興味があります。
 2007年06月02日((土)18:30〜20:30) ということなので、気をつけて朝日カルチャーセンターをクリックすればいいですね。僕はどうせ参加できないけれど…。
◆もう一つ凄い組合せがあります。『茂木健一郎×斎藤環』、こちらのやりとりは往復書簡ですが、ブロブアップされるみたいですね。楽しみです。
御題は「クオリアですか」、双風舎さんの企画ですね、http://d.hatena.ne.jp/lelele/20070403/1175588165
参照:杉田俊介の★赤木智弘「「丸山真男」をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」を読んだ。 - sugitasyunsukeの日記続き、少し。 - sugitasyunsukeの日記