宣長から「言霊」?

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東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)オンライン書店ビーケーワン:星新一小林秀雄全作品〈28〉本居宣長〈下〉ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
 東京猫さんのエントリー『私も東京を考える』を読んでいたら、もう一度、僕の過去ログを読んでみたくなりました。成る程、事実派か権利派かで、取りあえず、整理出来るところがあります。ローティ=東浩紀ロールズ北田暁大と言う具合にですね、この『東京かから考える』(NHKブックス)は東京猫さんが、適切な引用とコメントをしています。とても助かりました。僕自身の引用部分と重ねで再読したわけです。肝心の僕自身、浅学なので、ローティとロールズについて語ることが出来ませんが、補助線で補強されたといった感じです。
 この本で僕はリチャード・ローティの『リベラル・ユートピアという希望』を購入したのに、いまだにツン読状態です。読まなくっちゃあ…。
 東京猫さんは下北沢の近所にお住まいらしいですが、そのような地点からの『私も東京を考える』でしょう。でも、下北沢って、偶然かも知れないが僕がブックマークしているブロガーは下北沢の人が極端に多いですね。やっぱし、「下北沢」って何かあるのでしょうか、(笑)。
 東京猫さんが引用している東さんのコトバ、《生殖は、その脱構築に抗うもなにも、そもそも脱構築できない存在なんですよ。言いかえれば、それはリベラリズムポストモダニズムの外部にある。》について、それはネーションについてでもあるのですが、僕はず〜と、このあたりの問題に付かず離れず何十年と伴走していたような気がする。
 例えば寺山修司の名句、《マッチ擦るつかのまの海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや 》の祖国はネーションであり、ここで言う「生殖のようなもの」であり、いくらでも脱構築出来る国家ではないのです。
 僕が東浩紀をもっとも気になる思想家としてカウントしているのは、このあたりにあるんだと、「東京猫の散歩と昼寝」さんの記事を読んで思ったりもしました。
 それに対して北田暁大は何とか抗おうと《「権利」への思考が「事実」を変えていく可能性を期待している。》と言ってはみるのですが、まるでそこには、「動物化する人間」って言い切っちゃあイケナイ、イケナイと言う、自らに言い聞かせる肩肘張った当為を感じる。それはインテリゲンチャとして当然の振る舞いかもしれないが、僕はやはり東浩紀の「語り口」に惹かれる。
 問題は《工学の作動そのものは脱構築の外部である、というかもしれない。しかし、私は共同幻想である(と考える)》と北田さんが述べるところにあるんだろう。
 上の東が言う「生殖」にしたところで、文脈に多少汚されているでしょう。その意味で外部ではない、所詮、僕たちは「外部」に触れることは無理だとも言える。「共同幻想としての外部」とも言える。確かに「生物学的事実はイデオロギーでない」とも言えるし、「イデオロギーである」とも言える。
 そこに「どうしようもない残余」を不断に見いだして行くしかないのでしょう。でも、ここまで、煮詰めると足が一歩も踏み出さないで常に蹈鞴踏んでしまう状態になってしまう。
 東浩紀の論理が荒くとも、工学的人間理解(動物化)から希望を見ようとしているのは、新刊の『コンテンツの思想』(青土社)、『フィクションはどこへいくのか』で、ライトノベルの小説家桜坂洋新城カズマとの鼎談で「書法としてのリアリズム」として同じ縦軸に純文学、ライトノベルを連続して考察する、とての刺激的な鼎談ですが、そこで、本筋ではないですが、このようなことを言っていることにも繋がると思う。

僕はもともと大陸哲学の出身なんですが、そちらはやたらとコミュニケーションの不可能性を強調する傾向があります。それに対して、英米系の哲学は、コミュニケーションはこんなにも不完全であるのに、なぜ成立するのだろうかという方向で議論していくんですよ。
 僕の最近の関心はどちらかといえば後者にあるんですが、それには社会的な背景もあると思っています。1980年代までの日本社会はとても均質性が高かったので、コミュニケーションが成立しているように見えるけど実はしてないよ、という哲学に批評的な価値があった。でも、いまの我々からすると、コミュニケーションがこんなにも不完全なのになぜ成立するのか、という思考の方が刺激的だったりする。

 まあ、僕は1980年以前から「コミュニケーションがこんなにも不完全なのになぜ成立するのか」ということに、関心を持ち続けていたような気がしますね、コミュニケーションが不完全ということは、言葉の不可能性でもあるのですが、その言葉に託さないからこそ、コミュニケーションが成立した事態がある。 小林秀雄講演CD第三巻『本居宣長』で、ソクラテスを引用しながら、文字の効能を頼みにし過ぎる物知り達にアホかと悪態をついている。言葉ではなくあくまで、文字ですけれど。

 双方の物の言い方は、言わば同心円を描いている。宣長は、「中古迄、中々に文字といふ物のさかしらなくして、妙なる言霊の伝えなりし徳」を想ったのだが、その点、ソクラテスも同様であった。(略)彼の考えによれば、書かれた言葉は、絵にでも描いたように、いつも同じ顔を、どんな人の前にでも、芸もなく曝しているだけのもので、語るべき人に語り、黙すべき人には口をつぐむという自在な術を、自ら身につけている話し言葉とは、まるで異なったものだ。話し言葉も、いずれ、書かれた言葉と兄弟関係にはあろうが、父親の正嫡の子という事になれば、やはり話し言葉だという考えなのだ。それでは、このの嫡子が持って生まれて来た、宣長の言う「言霊」について、ソクラテスは、どのように語っているか。ソクラテスは、どのように語っているか。それを見つけようとすれば、直ぐ見つかる。――この相手こそ、心を割って語り合えると見た人との対話とは、相手の魂のうちに、言葉を知識とともに植えつける事だ、――「この言葉は、自分自身も、植ゑてくれた人も助けるだけの力を持つてゐる。空しく枯れて了ふ事なく、その種子からは、又別の言葉が、別の心のうちに生れ、不滅の命を持ちつゞける。――」(小林秀雄著『本居宣長 下』ー新潮文庫p262)

 東の言うデータは文字を含むテクストであるけれど、宣長の「文字」より「言霊」に近いものではないか、と思っています。 
 東の「キャラ」は永遠に二次使用されて増殖されるものでしょう。それは、例えばてるてるさんが、「宮廷女官チャングム」の二次小説をアップしているが、チャングムの全体像は見えないわけですよ、誰もわからない。
 僕はこの東の「キャラ」が上に書いた「話し言葉」、宣長の「言霊」に接続するような気がするのですが、凄い飛躍でしょうか。「キャラクター」は複製可能だけど、「キャラ」は複製は不可能。だからこそ、著者権法上の問題をクリア出来ると思う。そのような「キャラ」の素材として「データ」がある。
 小林秀雄本居宣長ライトノベルをつなぐ回路はあると思うんだよね。チャングムが「キャラ」なら、チャングムは男にも成り得るし、両性具有者にも成り得る。
 最後に、東浩紀は『コンテンツの思想ーマンガ・アニメ・ライトノベルー』で、文脈(物語)が共有できないときのコミュニケーションって、固有名しかないという気がすると言っている。「キャラ」といい、「固有名」といい、でもそんな文脈を削ぎ落として「キャラ」、「固有名」ってありうるのかという疑念があります。
 でも、過去ログでも書いたかもしれないが、「キティちゃん」がいまだにどうして売れるのか?ってキティショップの店長に聞いたら、一言「物語がないから」って答えました。凄くナットクしましたが、あとで、冷静に考えると、どうもオカシイ。
 「言霊」/「キャラ」の断面を理解しても、「キャラ」が「萌え」ると「記号が立ち上がり」、言霊のようなリアリティが生ずるのであろうか、只今、東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』を読書中。
 文字に託さないで、文字以前のノイズまで落とし込んだデータにまみれて、自分で考え、自分で感じる、そして、他者の心を生きるというイマジネーションを磨くしかないと思える。それは直感でもあるわけで、その意味でそれは動物化する人間」に接続する事態があるんではないかと、僕はおかしな飛躍をしているみたいですが、でも、それによって、純文学、ライトノベルを接続した文学史が浮かびあがるのではないかと、思ってみたりします。結論を出してはいけない問いですけれどね、僕はライトノベルのことを殆ど知らないけれど、もっと重く捉えるべきかもしれない。
 それを架橋すべき作家として橋本治星新一に触れていたけれど、星新一も久しぶりに読みたくなった。