「ジャパン! おお、人類」ってならない助走

[rakuten:rdownload:10048156:image]大衆の反逆 (中公クラシックス) [ ホセ・オルテガ・イ・ガセト ]
 34歩の助走が一時停止しているとの常連さんの指摘があって、また、13歩目の助走の助走14歩目の助走の助走を再生プレイします。
 どちらの歩みも「感情の政治学メモ」という僕に相応しからぬ大仰なタイトルが付いていますね。

A:平等にみんながビンボーになるか、B:少数の人々が豊かな生活を享受出来て格差を肯定する暮らしの方が生き甲斐があるとみるか、極論すればどちらの暮らしを選択するかであってそれに最適なシステムを構築しようにも「平等にみんながビンボー」になりましょうという共産社会は一党独裁鎖国をするしかないでしょう。 ビンボーなんて相対的なものだから、情報を遮断するしかない。そうするとBで工夫するしかない、Bが基本であって、養育費に関しては地球規模で財を惜しみなくそそぐことで、機会の平等を確保するシステムを構築すること、まあ、Bを選択しても財の相続は原則認めないという縛りは必要でしょうね、(具体的な数字は例えば被相続人の包括一億円までは相続人に分配を認めてそれ以上は一切みとめないとか…)、そして生前贈与の税率を高くし、寄付行為に対しては税率を下げ、災害などが起こったときの寄付は特例寄付として無税にするとか…。
 常にみんなが同じようにスタートできる土俵を社会に構築出来れば、試合中での不平等はナットク出来ると思うのです。勝ったり負けたりするわけです。勿論そんなプレーに参加するのは嫌だと観客に徹するのもひとつの生き方でしょう。そのような流動性は積極的に受け入れたい。
 勿論、ここでC:のEU方式というか、第三の道というか、論点を明確にするためにあえて掲載しませんでした。バブル時代の「みんなが中産階級だ!」っていう時代はもう到来しないと思うからです。僕の本音は、夢はCであるのは当然。
 これも宝くじ的確率か…どうか、ワークシェアリングって、やるか、やらないかの実践問題だから理屈で検討しても仕方がない、だからCを外したというのもあります。

 改めて去年の8月に書いた感情の政治学メモ?を読むと、僕の考えはぶれていないですね。一番の問題は相続、贈与で、「家族という問題」に突き当たらざるを得ない。
「子育て」を親(血)の問題に重心を置くのか、国を含めた「共同体」(地)に置くのか、
 「所有」とは所有権という法律概念があって生じるものではなく、「わたしの子供」、「誰かの子供」と言った「感情」が「身体を伴った幻想」(事実)として延々と、どの共同体、どの民族にも共通の規範として刷り込まれているから、起こるのであって、そのような「感情」(事実)を相対化して、より良い社会構築のために政治はベットからはみ出た手足を切り落とすような血を見る暴力が要請されるであろうか。
 そうすれば、そこに、息苦しさが立ち上がる。感情の政治学メモ?で書いていることは「感情」の強度をバカにしてはいけないということなんだと思う。

言葉は乱用されてきたために権威を失墜した。他の多くの物の場合と同じように言語の場合も、乱用とは道具としての限界をわきまえず、勝手気ままに使用してきたことである。約二世紀前から。話すとは「都市に向けて世界に向けて」話すことだと信じられてきた。これはとりもなおさず、すべての者に向かって話し、誰に対しても話さないということである。私はこのような話し方が嫌いであり、誰に向かって話しているのか判然としないときには心の痛みを感じるのである。−オルテガ著『大衆の反逆』(白水社)p10よりー

 それから、ビィクトル・ユゴーの金婚式のエピソードについてオルテガは書くのですが、その祝典がエリーゼ宮で催され、各国代表が贈物を持って大詩人に祝辞を述べるのです。「大英帝国代表どのーォー」すると、大詩人は白目を剥いて、「大英帝国!おお、シェクスピア!」案内係は続ける。「イスパニア代表どのーォー」、ユーゴーイスパニア! おお、セルバンティス」、「ドイツ代表どのーォー」、「ドイツ! おお、ゲーテー」

 しかしそのとき、小柄でぶよぶよ肥った、妙な歩き方をする男の番になった。案内係は叫んだ。「メソポタミア代表どのーォー」
 それまでは威風堂々と自信に満ちていたヴィクトル・ユゴーがちょっと怯んだ様子を見せた。不安にかられた彼の両の目は、あたかも、見いだし得ないものを宙に捜し求めているかのごとく、大きな弧を描いた。しかし間もなく彼は、それをすでに知っていたことに気づき、再びその座の主人公にふさわしい落ち着きを取り戻した。そして実際、彼は以前と同じ感動的な調子と確信を持って、まるまるとした代表の敬意にこたえていった。「メソポタミア! おお、人類」

 僕のようなものでも、時として「人類に向かって」話すような誘惑に駆られるときがある。書くこともある。内容が空疎であろうとも、人類というフレームで飾ると何か、崇高なことを喋った、書いた気分になるわけですよ(笑)。
 具体的に宛先を表示して言葉を届けないと、言葉は消えてしまうのでしょうね、
 メーデーが叫びなら、誰かに届く。
 参照:http://runday.exblog.jp/5989932/