対談/往復書簡

 僕は対談本、鼎談本が大好きだ。特に鶴見俊輔さんのものは好きです。鼎談集の『戦争が遺したもの』は緊張感に満ちたもので読み手もスリリングな気持ちにさせてくれました。本書で益々鶴見だんが大好きになったのですが、田口ランディさんのブログで『対談ということ』を読むと、

対談相手の著書などを、事前にしっかりと読むようになったのは鶴見俊輔さんと対談してからだ。鶴見さんは、対談のために私の著書をほとんど読んでいらっしゃった。しかも本には無数のふせんを貼りつけられていた。私はそれを見て、若輩の自分がなんとナメて対談に臨んでいたのか、ほんとうに恥ずかしくなり反省して、以後、対談を受けるときは相手の著書は最低でも一冊は読み切り、最近どういう発言をしているかなど資料を調べてから臨むようになった。あのときは、ほんとうに猛烈に反省したのだ。

たまらないなぁ…、胸が熱くなる。

人びとは真に話すということは、単に何かを言うにとどまらず、何某が何某に何かを言うのだということをあまりにも忘れている。すべて話すという行為には、話し手と聞き手がおり、この両者は言語の意味と無関係ではない。言葉というものはすべて偶発的なものである。言語活動とは、その本質からして対話なのであり、それ以外の形の言語活動はすべて言葉の効果を減退させている。したがって私は、良い本というものはただ、その本がわれわれに潜在的会話を提供する度合に応じて、また、あたかも行間から心霊的な手が出てきて彼の体に触れたり、愛撫したり、あるいは非常に慇懃なパンチを加えるのが感じられる度合に応じて良書たりうるのだと考えている。−オルテガ著『大衆の反逆』(白水社)p9よりー

 leleleさんによると、双風舎ウェブサイトで、新連載が始まり、斎藤環さんと茂木健一郎さんの往復書簡のやりとりが始まりますね。6月初旬から公開とのこと。書簡のテーマは、「脳は心を記述できるのか?」ということで、「クオリア」とは何かを再考することになりそうです。往復書簡は雑誌メディアではあまり見かけなくなりましたが、ウェブでは面白いパフォーマンスが期待できるかもしれないですね。