憲法と「美」

 過去ログで既に書いたことですが、憲法学者で故田畑忍(土井たか子の指導教授であった)は、*1常に憲法には改悪はない。憲法改革は改正のみである。そこに価値判断を先行させるのですが、田畑忍の歴史観が動かないものとしてそれを正とするなら、その歴史観に違和を感じていると弾き飛ばされる。
 そんな疑問を授業中に感じましたが、教授の熱情は凄まじいもので、ある学生がそんな疑問を呈した時、結局、「正しいものは正しいんだ」とその自信の説得力に、そのある学生や、僕はニヒリズムに毒されているのではないかと、多少、落ち込みました。
 でもあんな風に無垢に、ある歴史観を信じることは僕には出来なかった。ならば、宗教なのか、(かっての時代背景がそうさせたという社会学者的な分析も成り立つがー理想の時代ーとか)
 でも、そのような分析で語り終えたくないなぁ…という心境に最近はなっています。時代がどうあろうとも、一人の男が「狂」的に何かを信じていたのは事実であった。その出来事が大事だと思うようになったのです。
 昨日、茂木健一郎クオリア日記で東京芸大美術解剖学の講義をMP3で『批評はいつ美になるのか』を聴きましたが、質問タイムで学生が「批評」を「科学」と言い換えて「科学はいつ美になるのか」と思考実験すれば、むしろ、「美はいつ批評(科学)になりうるか」ではないか、と疑義を差し挟んでいたが、恐らく、どちらも言えるし、それは、個と普遍の問題にもつながる。
 「科学」(個)を徹底した果てに「美」(普遍)が立ち上げるわけではないし、恐らくその境界線上に起きる何ごとかの事態でしょう。 それが、「クオリア」(美)というものでしょうか。
 田畑忍の憲法観を支えているものは「美」(クオリア)だったと思う。それは批評以前に立ち上がっているものだとも言えるし、戦争体験、敗戦、その時代状況の中で徹底した「批評」によって日本国憲法が立ち上がったという文脈上の「美」とも言える。大日本帝国憲法を改正したものとして、そこに連続性もある。
 「改悪は違憲なのです」、手続きに則って改憲されても、憲法は、憲法たるが故に「改正かどうか」という価値判断に晒される。批評という濾過装置によって、科学として強度を持った、「美」(価値)でしか、憲法改正は出来ないとも言える。
 茂木さんの美術解剖学の授業で、千利休と秀吉の対比が取り上げられていましたが、秀吉自身が憲法だったわけですよ。しかし、その秀吉の憲法を支える「美」(憲法精神)を根底から覆そうとした利休は「侘び」という独自な「美」を発見してこの国の普遍としようとしたのでしょう。
 leleleさんの『憲法9条をどうする!? 』は、NHKクローズアップ現代」をネタにしたものですが、赤木さんや、雨宮さんも出演していたのですね。
 leleleさんの言うように《国民による権力への命令としての憲法なのに、国民がその命令の内容を理解していないのはおかしいし、命令の内容を権力が勝手に変えてしまうのはもっとおかしいのではないか。》、このことは基本中の基本で、もし、仮に改憲があり得ても、最後は自分たちに跳ね返ってくるという覚悟をもっておくべきでしょうね。
 まあ、僕の中のどこかに、憲法は例え多数決によるものであろうとも、改憲そのものが違憲であり得るということがある、それが憲法の起源問題だと思う。
 起源問題は隠されるわけですよ。改憲論者、護憲論者を問わず、「あなた方の憲法を支える精神はなんであるか」、右の人の専売特許みたいな「国体」は、左の人、護憲論者も堂々と使うべきだと思う。文化論争なんですよ。そして、「憲法精神」の器の中味で侃々諤々やって欲しい。憲法問題は法律論争で答えが自ずから現れるものではない。
 だからこそ、法律の専門家でもない僕を含めた人々でも「何ごとかを言える」のです。上で「ならば、宗教なのか」って書きましたが、少なくとも、「あなたが信じているものは何か」、そのことによって、徹底してそのことを見つめることによって、自ずから憲法を批評する目が生まれる。そのような批評に晒された憲法なら例え田畑忍であろうとも、それは改正と認めるであろう。単なる多数決が根拠になり得ないのです。これが僕の憲法観です。

田畑も「なぜ」にこだわる学者だった。九条の解釈で「自衛戦争は否定していない」という学説もある中、「交戦権を否定している以上、侵略、自衛、制裁、いかなる戦争も永久に放棄している」と絶対平和主義の立場を取った。
 「常識に反した歴史の飛躍」と田畑自身が語る理念が、なぜ国の最高法規になったのか。敗戦と将来の軍事大国化を防ぐことが理由とされているが、田畑は「立憲」の思想的な源流をたどる。
 キリスト、孟子、ルソー、アインシュタイン内村鑑三安部磯雄幣原喜重郎…。古代から現代に至る宗教、哲学、科学、社会主義、政治家の平和思想を研究。小さな支流が大きな川となり、日本国憲法に結実したと確信する。
 田畑は九条の厳密解釈に戸惑う学生を厳しくしかった。「私が教えるのは田畑憲法学。ほかの憲法学に興味があるなら出て行け」と怒鳴ることさえあった。ー神戸新聞より

 僕の中に利休と田畑忍が重なるところがあります。
 現憲法は茶室に似てはいまいか、躙り口で「武装解除」、
 春の夢か、でもそれを本当に信じ、貫徹しようとした人々がいたことも事実なのです。