少なくとも一次情報は捏造しないでね、

抵抗の場へ―あらゆる境界を越えるために
 「今日から四百id:shintakさんの『マサオ・ミヨシの「捏造」』」の記事を読んで、頭を抱えてしまった。
 僕はid:shintakさんのブログをお気に入りして楽しませてもらっているから、その積み重ねで、信用度が高いのです。
 それに比べてマサオ・ミヨシの著書は読んだことがない、だから、読み手の僕の中にshintakさんの書いていることを、どこの誰かと知らないマサオ・ミヨシさんよりは信じるというものがありますが、
 僕が不思議に思うことは、かような「捏造?」は当事者達がいらっしゃるし、十年前ならいざ知らず、ネットでは簡単に露呈するということで、
 実際、はてなで、僕はこの関連記事を読んだのですが、せっかく、新刊が出版されたのに、これじゃあ、読む気が失せますね。問題は本の内容が一次情報をないがしろにして、閉ざされたイメージの中で都合良く料理されているということでしょう。
 しかし、この記事がid:m-takedaさんの『時をかける少女』につながるとは、びっくりしました。(笑)
 そう言えば、まだ見ていないんだよね、DVDを借りるか、

たとえば、先日の米国の銃乱射事件をTV報道によって知り、犯人から届けられたというヴィデオや写真をウェブで見て、韓国政府が(事件を自分たちの民族や国家と結びつけて)弔問団を送ろうとしてアメリカ政府に断られたという記事を新聞で読んで、というようなことは皆「既に『表象物』となったものを参照して」いるだけであり、それへの反応は、あたりまえだが、事件そのものに対してではなく「描かれた」事件をめぐってのものだ、ということになる。それで思い出したが、たとえばある本(『抵抗の場へ』(洛北出版、2007年)を読んで、『戦場にかける橋』を見直してみた、なんてことも同じで、まったく「表象」の世界のなかにとどまっているということであり、上の古谷氏の文章は、そうした現実のモノやコトとの直接の出会いを欠いた、既成のイメージに寄り掛かったという意味では擬似的で二次的な表現行為に対する批判になっている。ー『時をかける少女』ーより

 shintakさんの書いているのは、マサオ・ミヨシは堂々と当事者として一次情報を参照しているのですが、同じく当事者であったshintakさんの記憶とはまるっきり違うということです。
 少なくとも二次的な表現行為なら、読み手もそのようなものとして了解しますが、一次情報が全く捏造されるとすると、これは許すことが出来ない。枝葉末節が違うのなら許せる、でも、これじゃあ、まるきり正反対ですね、shintakさんの怒りがわかります。
 メディア・リテラシーは厄介ですね、読み手としては二次的表現は、それなりに参照点が多いから意外と検証出来ますが、一次情報は「信じるか信じないか」で、当事者でないと検証の仕様がない。
 shintakさんの、このような記事を当事者としてアップせざるを得なかった強い思いがひしひしと伝わります。