「オルタ」を読了



 五月号の『オルタ』は「貧困特集」ですが、巻頭で谷川茂氏(双風舎代表)が書いているように、何を持って貧困というのかわからないところがあるのは事実でしょう。
 それが「ワーキングプア」だとか「ホームレス」とかフォーカスすると、論点が明確になって具体的に検証出来るのであるが、たぶん編集者はそのあたりの事情はわかった上であえて、「世界の貧困ー日本の貧困」と「貧しさ問題」を世界地図の上で俯瞰しようとしたのでしょう。
 それは「ネオリベグローバリズムと南北問題の国内化」を明晰に照射するための避けて通れない作業だと思う。
 「援助」の問題も、僕にはよくわからない部分がある。本雑誌の執筆者達はカンボジアなり、山谷、釜ヶ崎などで、実際に現場を見たり、援助活動をした中から彼ら自身のメッセージが高い筆圧で発信されるのですが、受け手の受信装置が、ある種の覚悟がないと、単に「知る」ことで消費されてしまうと思う。
 中山智香子氏が映画『ダーウィンの悪夢』を参照して、タンザニアで一晩一ドルの夜警の仕事をしていたラファエルという男(ちなみに一日一ドルの生活費は国連開発計画の定めた発展途上国の社会指標「貧困ライン」の線上にあるとのこと)や彼の側に立つ人々に有効な「援助」をすることは容易ではない。それでもなお援助を?と書いているが…、
 この「知る」が単なる知識や情報を意味しないで、「わかる」につながるとき、救命ボートのジレンマを乗り越えられるかもしれないとして、たぶん、それは身体性としての「わかる」であるけれど、
 今この時点で、僕は明晰なメッセージと覚悟を宣言出来ない。
 田口ランディブログ「咲くって、どういうこと?」で板橋禅師が「覚悟があるかどうか、その時になってみなければわかりませんよ」と言ったというが、「知る」と「わかる」との間にはとてつもない深い溝があると思う。
 でも、そのような小乗仏教的処方箋ではなく、大乗仏教的な無垢な祈りでもなく、社会工学的なシステム論として、「貧困問題」にメスを入れなければならないのでしょうが、そのためには、やはり情報として知識としてでも「知る」ことで始めるしかない、そのような参照として『オルタ』は目配りのきいた雑誌だと思いました。