クオリアは他者のクオリアである?

 斎藤環×茂木健一郎の往復書簡の【第1信  「価値のクオリア」は存在するか?(斎藤環)】がスタートしましたね。長文ですけれど、さっそく読ませて戴きました。斎藤さんの以下のところは僕の関心どころで付箋を貼らせてもらいました。

私がラカンに依拠する最大の理由は、思考の前提に「欠如した主体」を据えるラカンの発想こそは、思想史的な意味でもあと戻り不可能な切断線だと確信するからです。「マルクシズムの復権」や「フロイディズムの復権」は局所的にはありえても、素朴な「主体の復権」はありえない。もしありうるとすれば、それは巧妙に擬装された退行的身振りとしてのみ可能である、というのが私の考えです。
 おわかりのとおり、今や「脳」こそは、誰も反論しようのない「主体の座」としての位置を固めつつあります。しかし、ここにひとつの逆説がある。主体の座としての脳がクローズアップされるほど、主体概念そのものは、構成主義的な性質を帯びてしまうのではないか。ニューラル・ネットワークのなかに「主体」が位置づけられてしまうことは、別のかたちでの「主体の死」なのではないか。ラカン派の立場に立っても、あるいはオートポイエーシス理論などのシステム論的な見地からしても、脳神経系は主体の「外部」に位置づけられるからです。
 さしあたり、私は、「どちらが真か」という論争を準備しているわけではありません。今はまだ、茂木さんと私の「立場の違い」についてはっきりさせようとしているだけです。私がなぜ「クオリア」という概念を素直に受けとめられないのかは、もうおわかりでしょう。「欠如した主体」をすべての出発点とする思想は、クオリアという否定しようのない実感についても、いったんは幻想として受けとめるからです。味気ない身振りではありますが、私はこれを倫理的要請と考えています。ならば、倫理とはなにか?
 私にとっての倫理とは、まずなによりも、「美」や「実感」に最大の価値を見いださないための、思考の拘束具です。

 僕はアイロニストであることが、倫理の前提であるとの思考の癖がありますから、このあたりの「クオリア/倫理」の切断面、境界線に興味があります。お二人の往復書簡が僕の、例えば、「美とは何か」、「倫理とは何か」のズレを補正する少なくともズレの拡大を防いで、より近接する一歩になるのではないかと、期待しているのです。

◆私秘的で共訳不可能な価値の存在を、共通言語でやすやすと言いあらわしてしまう矛盾、ということです。
◆「倫理」とはこの反省的判断力によって導かれる、超越論的なメタ価値を指しています。それゆえ他者性への配慮、とりわけ最大の他者であるところの「象徴≒言語」への信頼なくしては成立しません。

クオリアは他者のクオリアである」って、むつかしい!せめて、僕であっても、ここの玄関口、躙り口まで行ける、お二人の往復書簡を期待します。
 そうなれば、いつか、ゆるりと、四畳半で一服献上出来る、一期一会の他者との交歓があり得るかも知れない。
 ◆書籍出版 双風舎:【連載】「脳は心を記述できるのか」
 追記:茂木さんが、講演で言っていることですが、「読み書きそろばんも大事」、「総合学習も大事」で、「あれか、これか」ではなくて、「あれも、これも」、「ネタかベタか」ではなくて、「ネタもベタも」だと思う。日本シリーズでの「江夏の最後の一球」ですよ。文武両道。リリースポイントを出来る限り、ためて、思い切り投じる。「神経経済学」における「投資」も同じ。「内部の内部は外部」であるのも、クオリアが他者性につながるからこそ、クオリアたり得るのとどこかで繋がっていると思う。
 あれもこれものバランスであり、動的平衡dynamic equilibrium)なんでしょう。
 参照:アディエマスを聴きながら『闇金ウシジマくん』を読む - Übungsplatz〔練習場〕