自由と生存の分裂

 ◆タマタマかも知らないが、珠らん代!http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/tamayo_marukawa2/story/20070717hochi015/

 ■最近はトンデモな使い方がもっぱらなので、「自己責任」なんて、言わないけれど、若い頃から、口癖のようによく言っていましたね。でも、それは自分に対して投げかけることばで、例えば、ギャンブルをして大負けすれば、「自己責任」で当分禁欲生活を送るとか、何らかの罰則を自分に与える。大勝ちすれば、「ありがとうございます」と、見えない誰かさん、神さんに感謝をする。
 自虐として「自己責任」という言葉を内に向かって投げるのであって、他罰構造で使った覚えはない。女にふられたときだけは、多分に相手の所為にして、それじゃあ、多少後ろめたいから、「お互い縁がなかったんだ」と、見えない誰かさん、仏さんの所為にする。この場合だけは自分を罰しない、それよりはいち早く忘れるように心がけ、「もてるときも、あらなぁー、」で、次の出会いを憧れ愉しむ。この場合は「自己責任」の入る余地がない。
 鵜の目鷹の目で他罰構造的「自己責任」を言いつのる男とは友達になりたくないし、そんな女には惚れないだろうなぁとは思う。でも、直ぐに自己を責めてしまう男や女には心惹かれてしまうところがあるのは否めない。
 単に攻撃ツールとして、「自己責任」という言葉が浮上したのは、イラク人質事件での「自己責任」で、「自己責任」と大声で連呼している連中は決して自分に向かって「自己責任」の石投げをしない。他人に向かって投げつける言葉だと思っている。
 そして、そんな石投げをナイーブに受け止めて自分を責める人々が確かにいる。
 月刊誌『オルタ・6月号』に掲載されている、杉田俊介の『「自己責任論」再考』で、《自立サポートセンターもやい湯浅誠さんによると、格差と貧困は違う。「努力や能力に応じた格差はよい」とはまだ言えるが、貧困は政治的社会的に解決すべき問題で、個人の自己責任の埒外にある。》と書いているが、前日僕が書いた「下流リバタリアン宣言」における「上は市場原理」は「格差を受容する」ということで、「下は談合(助け合い)」は《「自己責任論は、自分のストレスや社会の矛盾を自分自身に向けさせる、もっともコストのかからない、もっとも安上がりに貧困を見えなくさせる手段です」》という目眩ましで自虐的にならず、堂々と運動をしたり、組合を作ったり、行政の窓口に出かけていけばいいということです。
 そう言えば湯浅さんの『貧困襲来』が発売されましたね。付録としてエクセルによる生活保護費の自動計算ソフトのCDがついていますが。ネット上でもダウンロード出来ます。

2004年のイラクでの日本人人質事件の後に噴出した「自己責任論」は、むしろ苦境に立たされた人に「お前が悪い」と全責任を押し付ける口実でしかなかった。貧困者にも同じ論理が適用される。努力が足りないからだ。怠け者だからだ。不安定生活者たちを強いる内なる優生思想は、この自己責任論が深く内面化された状態(「私がすべて悪い!」)なのだろう。「あなたは悪くない」「すべての責任は社会の側にある」という言葉には、当事者たちをこの自縄自縛から解放し解毒する効果がある。この価値の転倒を可能にする実践的居場所を押し広げていくこと、それが何より急務だろう。
 しかし他方で、素朴な疑念が少しある。これらの言葉は、ある種の洗脳の意味を含んでしまう。それは「お前が悪い!/私がすべて悪い!」という洗脳に対する逆洗脳、戦略的な抵抗洗脳なのだろうが、「あなたは悪くない」「悪いのは社会だ」が洗脳的に作用する事実は動かない。状況の逼迫はわかる。ぼくなりにわかる。しかし、個人の自由(自らによって立つ)の価値を依然深く信じる限り、何か違う抵抗の言葉もあるのではないか、と思いたい。 

 杉田さんの「しかし」に続く言葉は重い。そして、赤木氏の苦痛は歴史的に孤立した苦痛ではなかったとして、田中美津の「被抑圧者の日常とは、抑圧と被抑圧の重層的なかかわりの中で営まれていた」の言葉に触れる。

 ぼくは長い間、次の矛盾に困惑させられてきた。「人は自立しなければ生きる価値がない」(自由の課題)。「人はたんに生きているだけでよい」(生命の価値)。前者は正しい。後者も正しい。しかし両者は矛盾する。どういうことだろう。自分が不徹底に思われた。根本的に何かが間違っている気がした。しかし、ある時ふと雪解けのように気付いた。この矛盾と葛藤は自分の中で永久に消えはしない。ぼくらは自己否定と自己肯定の間で無限に引き裂かれて構わないらしい。むしろこの悪循環こそが、ぼくがフリーター的生活・生存を強いられてあることの存在証明なのだから。ぼくは自分が悪循環の渦中にあることをまずは認める。そこからまっすぐに世の中を見つめ返す。他人と出会っていく。それはときに衝突を、激しい葛藤と論争を生むだろう。しかし、それで大丈夫らしいのだ、どうやら。田中は取り乱しを通して他人の取り乱しに出会え、と言った。そこに最高のチャンスがある、と。

 ぼくはこの論考を読んで、kanjinaiさんのウェブに現われる「他者」の具体的検討を思い出しました。
 ウェブでそのような出会いがありうるかどうかわからないけれど、あればいいですね、取り乱しの出会いは、最高のチャンスでもあるのだと思う。
 参照:「赤木が来たりて笛を吹」・・いて帰った: muse-A-muse 2nd
運動における協調可能性について (想像力・他者・寛容・弱さの強さ): muse-A-muse 2nd
「恵まれた」人間は、社会批判をする資格がないのだろうか - Sound and Fury.::メルの本棚。
太田昌国の若年層「フリーター」からの左翼批判に思う