誰が最後の木を切り倒す人になるのか?

A Short History of Progress暴走する文明―「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ風の旅人 (Vol.19(2006)) 
『風の旅人』は大阪の図書館で全巻揃えているところがないんです。こちらの図書館が一番揃えているのですが、それでもバックナンバーが18号までで、19号以降がない、うんで、こちらの図書館に寄贈と僕なりに(半分は保管のノリ)、奇特な心がけで、一冊ずつでも持って行こうと、取りあえず、19号をめくったら、
 管啓次郎のコラム『最後の木の島』が身にしみて他人事ではない怖れを感じましたね、「貧困問題」の最終的解決は、かような、どんずまりの「不幸の共有」で「人間の退場」を促し、新たな何かが始める兆しになるのかもしれない。
 管さんは、ロナルド・ライトの『進歩小史』から3つのポイントを取り上げ、コラムを書き進める。
(1)島の最後の木を切り倒した人間がいた。
(2)人間の文明=都市化は本質的におなじかたちをとる。
(3)過去一万年の気候の安定は僥倖でしかない。

 こうしてふたたび、いわれてみればあまりにもあたりまえな事実へとゆきつく。われわれの生き方、社会、生産から消費にいたるプロセスが、過去一万年の気候を前提としたものでしかないこと、すべてがあまりにも新しいことだ。そしてヨーロッパが世界をひとつのシステムにひきこんだ過去五百年の異常な革新が、世界の全体を、すべてがすべてにむすびついた手に負えない錯綜体としてしまった現在、暴走はいっそう慣性を増して、とめどなく続いている。
 地球の全表面にとって、ラバ・ヌイのテレヴァカにあたる山頂はないが、われわれはすでに宇宙から惑星全体を鳥瞰する視線を手に入れている。その視線が惑星の最後の木の場所を見つめる日が、いつか遠からずくるのだろうか。手がとどかない遠隔視力のせいで恐怖に凍りついた人々が息を飲むのを尻目に、血走った目の誰かが泣きながら最後の木を切り倒す日が、いますでに生まれている子供たちの生涯のあいだにも、避けがたく訪れるのだろうか。

 関心のある方はバックナンバーを図書館で読んで下さい。追々読み終わったら、一冊ずつ寄贈しますので(汗)。