祈りの秘儀

書くことの秘儀責任と判断
 発売されましたばかりの双風舎刊の仲正昌樹『思想の死相』の「あとがき」が公開されていますね。*1

[……]“私たち”の内に、自分の「有限性」を認めたくない、エデンの園のような幸福な原初状態に戻りたいという願望がある限り、“生き生き”志向はけっして消えることはないだろう。 “私たち”は“生き生き”としたものに“一瞬”触れたようになるつもりになることで、「神の不在」の真空において生じる不安を埋めようとする。だからマス・メディアや政治・社会運動、そして宗教団体は、“生き生き幻想”を振りまきつづけ、それに魅せられて、“生き生き”と祝祭に参加したがる人たちは、あとを断たないだろう。
 しかし、「人間」の「有限性」を受け入れ、人間の力ではいかんともしがたい「限界」の中で思考しようとする思想・哲学は、そうした“生き生き幻想”から距離を取るべきである。エクリチュールの外部に出ようとする欲望を追求しつづけることが、“私たち”に与えられているごくわずかの“自由”の余地をさらにせばめ、よけいに不自由にしていることを、いいかげんに悟るべきである。[……]
http://sofusha.moe-nifty.com/series_01/2007/07/post_ce83.html

 う〜ん、と考えてしまう。まあ、本文をちゃんと読んで感想を述べるべきなので、コメントを控えます。
 参照:★「はじめに」http://sofusha.moe-nifty.com/series_01/2007/07/post_761a.html#more
    ★「ベンヤミンの思想を読む 5」http://sofusha.moe-nifty.com/series_01/2007/07/5_c7d3.html
    ★「アーレントの思想を読む 1」http://sofusha.moe-nifty.com/series_01/2007/07/1_3922.html
    ★「アーレントの思想を読む 2」http://sofusha.moe-nifty.com/series_01/2007/07/2_a338.html
    ★「アーレントの思想を読む 3」http://sofusha.moe-nifty.com/series_01/2007/07/3_3aa8.html
 『風の旅人・19号』に収載されている日野啓三のテキスト『書くことの秘儀』から「人間に成る」が引用されているのですが、僕は日野さんの言葉に目眩する。「共振とは、自分の壁と戦っている存在者同士の間で生じる理解にほかならない」(酒井健)、そのような共振、驚きを受信する無垢性を僕は大事にしたい。

 いま世俗化の大勢の中で成人儀礼は、毎年一月の区役所毎の成人式まで実体を喪失してしまったが、女性を含めた新たな精神形態への“死と再生”のドラマに何らかの形が生まれ広まると、どんな《人間》の新しいイメージが浮かび出るのだろうか。
 《人間》は実体ではない、繰り返し自己変革しながら新しいレベルの能力をつけ加えてゆくベクトル(方向性をもつ力)そのものだ、と考えると、そしてその力は宇宙的な起源をもつものかもしれないと想像していると、めまいがして気が遠くなりそうになる。ー『書くことの秘儀』よりー

 僕は本書の拙レビューでこんなことを書いていた。

 小説家は言う。宇宙的規模において、後期旧石器時代人たちが自分たちの内から湧き出て来た霊感によって創り出したこの[第二次表示体系]は、地球生物の誇るべき達成であり、言語システムというこの発明に比べたら、宇宙船も核も、ささやかなエピソードに過ぎない、言語システムをその内部から不断に活力あるものとして生かし続ける限り、人類は何を失ってもやり直すことができる。と、宣言する。
 [歴史の裂け目]の節で『屈原』に仮託する。殷の流れを汲む『楚』の神話的空間が秦帝国の合理的な現実原則に変わられ、それが、今も続いているとする彼の想像力は、後進諸国の実体経済と民族の生活を賭けて、マネーゲームに狂奔する連中の行為は、神話時代末期に捕虜の生命を賭けて、焼いた亀甲の割れ目の読みに血迷った聖職者たちと同じ頽廃であろうと、言い切る。
 状況は同じなのだ。まっとうな現実感覚を麻痺させて、世界との生きた連関を喪失しているのは…。
 もしかすると、農耕牧畜が始まって一万年、官僚制帝国が出現して二千年、再び人類の足許には大いなる裂け目が開き、新しい意識の時代が始まりかけているのかも知れない。意識の表層からは失われた無意識の記憶を呼び戻しながら…。
 日野のこの遺作が預言書に見えてくる。言語システムが生き残る限り、希望はある。残されたものの一人として、彼の言葉に共振する。

 『風の旅人・19号』収載の前田英樹のテクスト『自然に生きる』の自然は「かんながら」と読むのであるが(保田輿重郎)、前田は、かんながら(自然)に生きること、「物にゆく道」(本居宣長)を歩くことは、私たちの遠い過去にではなく、いつもこの現在に課せられている生の問いなのではあるまいか。と書いているが、生の思想、いや、それは「祈り」かもしれない。「祈り」としか言いようのないものでしょう。