死の断片/生きた花

映画を見る眼

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 『風の旅人 19号』で、小栗康平のエッセイ「五感と映像のあいだ」を読む。
 群馬県の小学校で小栗さんが行った公開授業での「映像教育」についてのレポートである。
映像は膨大なカットの集積であるけれど、生身の私たちは「生まれてから死ぬまでたったひとつのワンカット」でものをみているんではないか、切れ目がない。

[……]そしてここからが私の芝居。私はやにわにその花束を花瓶から抜き取り、床に投げ捨てる。私はいまなにかで怒っていて、その腹いせにこういう行動をとりました、この花を足で踏み付けたい。誰か代わりにやってくれる?子供たちは躊躇する。それが生きた花だからだ。よし、それなら、と私がバラの花を踏み付ける。子供たちがいっせいに緊張する。
 この模様がカメラで撮ってある。子供たちを席に戻し、私のとった行為を映像で見る。何が違うのだろうか。ここが授業の核心である。画像には痛みがない。他人事でもある。抜け落ちてしまったものがいっぱいある。みんなが毎日これと同じように、大事なものが抜け落ちてしまった状態でテレビを見ているとしたら、と問いかける。
 映像表現は、私たちが身体としてもっている感覚を、道具を使って確かめるものだと、私は思っている。それが失せてしまうと、情報だけが肥大化していく。その情報が私たちの生の連続性、持続性を断つ。
 授業の終わりに、35ミリのフィルムの切れ端を子供たちみんなに配る。私からのお土産である。これなくして、この子供たちは生きていけない。でももう片方の手に、生きたバラの花も必要だ。

 僕は学者ではなく素人考えですが、学者のお仕事も映画監督の作業過程と殆ど同じなんでしょう。膨大なカットフィルムをとり、集め、編集する「死の断片」のコレクターなのでしょう。まだ、手に入れていない仲正昌樹の『思想の死相』は、学者が思想を取り扱う振る舞いに置いて、それらは「カットフィルム」に過ぎないと言う諦念が必要だと思う。でも、そのような諦念を抱きながら、もう片方の手に、「生きたバラの花」を握りしめて、棘の痛みを感じる切れ目のない補給を不断にやるしんどさが課せられているのだと思う。