叫びのパトス

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

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ルポ 正社員になりたい―娘・息子の悲惨な職場

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 内田樹氏の『格差社会って何だろう』を読んで、僕は『裏表の労働観』とかで、違和の表明をしましたが、昨日のの毎日新聞(8/7)の夕刊、『水脈』で、ブログの趣旨と同じような記事を書いている。タイトルは【「格差社会」論の落とし穴ー物差しの一元化こそが問題】で、

 格差を論じる人たちがもっとも頻繁に用いるデータは「所得格差」である。世上に「格差」と言われているものは、煎じ詰めるとどうも財布の中身の多寡のことらしい。

 煎じ詰めなくとも、格差問題の基底は「所得格差」の問題で、そのような物差しで計量すれば、「貧困がグローバル化の波に乗って身近に押し寄せて来た」と、特に就職氷河期(1975年前後の生まれ)の若者たちが、どうやら「自己責任論」で社会構造の欠陥を覆い隠そうとするオヤジたち(特に)の狡さに気が付いて声を挙げ始めたということで、ジジィの僕を始めそのような若者にもそれなりにリスペクトされている内田さんが、「何で、こんな風にいじわるおじさん的振る舞い」をするのだろうかと、謎が深まるばかりです。
 少なくとも、僕や率先して「おかしいと声をあげた赤木智弘氏」を始めとした若者たちは、むしろ内田さん以上に「物差しの一元化こそが問題だ」と言っているわけです。僕の世代や団塊の世代が若者だった時代において、街中を、日本中を「ぶらぶら」しても不審者として排除されなかった。内田さんもそういう時代に青春を送ったわけで、今の時代と違うんだとわかっているはずである。
 あの時代は確かに目に見えるカタチで様々な物差しがありました。でも大きな物差し(物語)が背後にあった。その大きな物語(物差し)が見えなくなったような気がする今の時代背景があるわけで、お金(資本)が「世界でたった一つの花」という了解がないと、世界が回らなくなったということで、だからと言って、「お金」をたったひとつの物差しとして、「生きる」ことを計量しているわけではない。そのような物差しで誇りとか、心まで、計ろうとしようとする潮流に対して、雨宮処凛さんが、「生きさせろ!」と叫んだわけで、僕はそのことを最大限、評価したい。

 だが、もし所得差のことを「格差」と呼ぶということにすると、それは人間の「格」付けは所得差によって一義的に決定されるという判断に同意署名することになる。そのような手荒な判断に軽々に同意してよろしいのだろうか。

 僕はシステムの問題として「格差」を叫ぶ人は、そんな判断に同意署名しているわけではない、と思う。どうやら、内田さんは同意署名させたがっているように聞こえる。何か学者として自分の理論を先行させようとするズルサがあるのです。プライオリティーとして所得にフォーカスした政治問題として運動を起こしているのであって、以下のような言説とリンクしない。

 私自身は人の「格付け」をするときにはもっぱら「雅量」と「胆力」を基準にしている。「理解できないこと」にどれほど開放的に応接できるか、「破局的な事態」に際会したときにはどれほど冷静かつ快活でいられるか。私が人に敬意や信頼を抱くときに基準にするのはほとんど「それだけ」である。自余のことは、国籍も人種も性別も年齢も出自も、むろん所得も、およそ論じるに足りない。

 このことはナットクできます。僕もそのようにして生きてきたし、これからもそのようにして生きるつもりです。だからこそ、出来るだけ経済格差をくすべきだと思うわけです。何故、内田さんは、そのような哲学のもとで「誇りもズタズタにされながら」生きざるを得ない社会が見えないというか、あえて見ようとしないのか、そこが不思議です。まあ、それは内田さんの心の闇(動機)で、忖度しようがないが、もし、内田さんの物差しが多様性を内包しているなら、著書『下流志向』で言及した「労働からの逃走」、「学びからの逃走」というメジャーからでも、だからこそ、そのような逃走に歯止めをかけるために、「所得格差」を是正しなければならないという強いメッセージを発するという着地にどうしてならないのか、それが不思議なのです。
 ★「ホームレスはごみ。犬や猫と一緒。いきていようが、死んでしまおうが気にしない」として、赤羽公園で『少年がホームレスを襲撃した事件』は、他人事ではない。
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