ジョゼ虎と天然コケッコー

 映画『天然コケッコー』を地元の映画館で見ました。マイミクさんが、この映画について、『ジョゼと虎と魚たち』が好きな人は見た方がいいよ、だけではなく、とても素敵なエントリーを書いているもんだから、見たくなったのです。 脚本は渡辺あやなんですね、『ジョゼと虎と魚たち』は田辺聖子の原作を超えているというか、原作とは趣の違う映画であって、僕は原作より映画の方が好きだったのです。その脚本を書いているのが渡辺あやさんとは期待値が上がる。『メゾン・ド・ヒミコ』もそうなんだ。
 マイミクさんは原作のくらもちふさこと脚本の渡辺あや、そして監督の山下敦弘の世界観がピッタリと一致していることは、そうなんだけど、「外部」が丁寧に描かれているとの興味あるコメントをしていました。
 それは何かっていうと『幸せに参入出来ない外部をちゃんと描く』ってことだと思うんですよ、と。
 この 『幸せに参入出来ない外部をちゃんと描く』との視点は、僕は言われて初めて、そうか、そんな風に目配りした世界把握は、うっかり見逃してしまうなぁと、汗顔したのでした。 マイミクさんの言うのには監督の山下敦弘は『リンダ・リンダ・リンダ』においても、そうした彼女達の幸福にあずかることが出来なかった人達、彼女達の幸福を脇から眺めることしか出来ない人達っていうのをちゃんと描いている。それは幸せの外部であり、限界。だと書く。
 『ジョゼと虎と魚たち』の世界もそうだと言う。でも、両作品のラストは真逆。
 こんな風に書かれると見たくなる。確かにいい映画でした。

話を戻せば、普通の物語なら主人公たちが幸福になれば、ドラマ全体が幸福に包まれてしまうんですが、そうはならないんですよね。幸せが及ぶ範囲と限界、境界線をクールに見つめる第三者的な視点をこの三人は放棄しない。だから『天然コケッコー』は作家主義的に評価しようとすると原作者、脚本家、監督の三者がピッタリと重なった感じがする、非常に不思議な映画だと思います。

 マイミクさんのエントリーは長文でとても印象的なシーンも紹介してくれているのですが、あまり書かない方がいいですね、見てのお楽しみです。
 しかし、彼のようにシリアスな見方をするよりは、「幸せに参入出来ない外部」を見落として、見ないで、主人公のふたりに感情移入して、ただ乗りしてと言うのはキツイか、まあ、それでもいいとは思う、そうやって癒され涙を流す、そんな鑑賞が多勢でしょう。でも、許してあげましょう。
 『ジョゼ虎』にあっては、そのような癒しが入り込める余地がなかったと思う。そこが『天然コケッコー』と違うところかも知れない。だからこそ、ラストが真逆かもしれない。
 ところで、『ジョゼ虎』は僕の知る限り、女の人には凄く評判が良かったのに、男で良かったという人にあまりお目にかからなかった。わからないという感想が多かった。
 多分、『天然コケッコー』は男の子に評価されると思う。でもそれは、夏帆に視線が向かって、「外部」に向かわない確率が高いと思う(笑)。