ニート?

ニート

ニート

 昨日、映画『天然コケッコー』を見る前にホールの前の本屋で、後藤和智氏がエントリーしている『俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎&宮台真司』の記事が気になっていたので、『Voice」平成19年9月号』を立ち読みしましたが、後藤氏の落胆、怒りはもっともだと思いました。
 まあ、僕はそのような政治的な期待をしていなくて、ただ、宮台さんの世界解釈の手際を感心して読みとるわけで、ミメーシス(感染)するわけではない。そもそも、ジジィが感染するなんて気持ちが悪いですよね。
 『美しき少年の理由なき自殺』の少年のように感染力を若者たちに持つ宮台さんの影響力を考えると、今回の石原慎太郎東京都知事)による対談『「守るべき日本」とは何か』は、ちょいとヤバイのではないかとは思いました。
 まるで、宮台さんが都知事にご進講申し上げるという感じだもんね。最後に、黄色い声をあげるおばちゃんたちの視線に晒される都知事に対して、都知事のカリスマ性、ミメーシス(感染)力の凄さを感嘆してヨイショをするのですから、苦笑してしまいましたよ。
 後藤氏がわざわざ俗流若者論のファィル85にエントリーするのは、むべなるかな、って思いました。
 ところで、文芸棚にあった絲山 秋子の作品集『ニート』の一編「ニート」もついでに立ち読みしましたが、いわゆるニートと言われる若者の痛い当事者性が伝わるとてもいい作品でした。むしろ、文学者として石原慎太郎がこのような作品をどのように評価するのか、訊いてみたい気がしました。
 ◆ミクシィのコメント欄でピロシさんが下記のようにコメントしてくれました。とても大事な問いを含んでいるので、本人の了承のもと、コピペしました。

僕は『転向』してからの宮台の綱渡り的な危うさが好きだし、言っている事は、彼が常日頃から言ってる事と基本的には同じなので、もちろん宮台のアバウトな部分については後藤さんのようにちゃんとした検証が必要ではあるけれど、それは、石原対談に限らず、宮台のパフォーマンス全般に言えることなんでは、と思います。それでも宮台のやってることに意味が有るのか無いのかを問うべきだと思います。僕から言わせれば、何を今更、といった感じです。

石原のような強固なナルシストに対して、自分の言いたい事を伝える際、どのような戦略が具体的に可能なのか考えれば、恐らく石原のごとき人物は、自分にとって耳障りだったり、理解しがたいことは完全にシャットアウトしてしまう防壁を持っているとしか考えられないので、それを突破するには、相手の免疫機能をダマくらかすしか無い訳です。だから一見おべんちゃらを使いつつも、『あたなのような感染力を持つ人は昔は沢山いたんだよ』と、石原を相対化するようなこともちょろっと言ってみたりする。学者同士で対談している訳ではないので、正論をぶって溜飲を下げるよりも、石原にどれだけ自分の考え方を具体的に理解させるかということの方がより重要だと思うんですよね。現状において石原に代わるオルタナティブが無い以上、これは残念ながら仕方が無い。例えば宮台は、丸激において、民主党の前原や自民党の世耕に対しても平気でおべんちゃらを使ってます。

あと、異なる世代間においての情報や価値を伝達するための基本的な土台の底が抜けている、という見解は、僕も宮台と共有していて、共通項になる土台はやっぱり必要じゃないかと僕も考えているので、そこはある意味右派に近いかもしれないです。

もちろん、そんなもの必要ないっ!!というアナーキーな立場もあるんでしょうが、これは山田昌弘が丸激で言っていたんですが、社会学者にとって一番恐ろしいのはアノミーであって、それよりは国が強い方がマシ、だから社会学者は基本的には体制寄りなんだ、みたいなこといっていてなるほど、と思いました。

そこで石原のような男は、とっくに滅びたはずの恐竜みたいな昔の日本を単純に持ってこようとしていて、宮台は、腐敗しない市民参加の談合主義、みたいなことを言っている。土台が『台なし』になってしまった、という共通認識を、石原と宮台は持っているんですが、その台無しになってしまったものを何で補完するのか、という点について、石原と宮台は、『台なし』になってしまった時期を境にして、時系列的に相対していると思います。