<病>のスペクタル

「病」のスペクタクル―生権力の政治学

「病」のスペクタクル―生権力の政治学

 美馬達哉の『<病>のスペクタルー生権力の政治学ー』を読み始める。今週の土曜日にジュンク堂大阪店で立岩真也とのトークイベントがあるのですが、そのテキストです。読み始めたら↓で書いた「ギートステイト」に繋がるものがありますね。身につまされる。

 個人を監視するテクノロジーが極限まで個人化されることによって、逆説的に個人の身体の消失という事態が生じつつある。いうまでもなく、医療スタッフによる病院での入院者への監視は、診療という名のもとでの生身の身体の接触をともなっていた。これに対して、流動化した個人(もちろん自宅隔離されて完全に自由ではないが、入院しているより自由度は高いだろう)に対する距離を隔てたカメラによる監視においては、直接的な身体性は消失していく。ディヴィット・ライアンが指摘するように「消失する身体は近代の基本問題であり、通信情報テクノロジー拡大・浸透がそれを助長している」のである。SARS対策の一つとして、各国の国際空港で導入された人間の体温を可視化するサーモグラフィーによる監視システムは、テクノロジーによる身体の象徴的な例だろう。(略)個人の内部にある身体情報(発熱の有無)は外面化されて、監視の直接的な対象とされるのだ。
 さらに、身体の消失という事態は、<感染症>集団発生のグローバルな監視ネットワークの領域まで及んでいる。こんにちでは、新たな<感染症>集団発生を発見し、警告するのは、患者の身体に直接的に関わる医師たちのような「微生物の狩人」ではない。自動化されたサーチェンジが、インターネット上での疾病情報をキーワードによって検索し、フィルターにかけて取捨選択して、集団発生を見つけ出すのである(後略)ーp33〜34ー

 ミシェル・フーコーの規律=調教による個人的な内面化による生権力は最早必要ない。
 やはり、「ギートステイト」に繋がるか、45年も経てば、もっとその方向性が進化するんだろうね。身体が「スイカ」ですよ。カルテのデータも身体に保存される。
 参照:労働運動/生存運動 - sugitasyunsukeの日記