「殺されにゆきたまえ、そうすれば、きみに快適な長生きを約束してあげよう」(フーコー)

「病」のスペクタクル―生権力の政治学

「病」のスペクタクル―生権力の政治学

 前日のエントリー「若者を見殺しにしない国」から続く物言いですが、それは、<人間個人の身体>と<生命なるもの〈生〉>とのズレなのでしょう。そこで、美馬達哉は<生>あるいは『たんなる生命』とは何かの問いを立てるのです。そのための作業としてベンヤミンフーコーの議論へと迂回する。

 しかし、ここで見逃してはならないことは、「トウトサのない生命」の抹殺が大規模に進められていく事態は、「トウトサのある生命」を可能な限り尊重するし社会政策の展開と矛盾なく結びついた点である。科学史家のロバート・プロクターは、当時としてはきわめて先進的であったナチスドイツの公衆衛生および健康増進政策を詳細に跡づけた研究である『ナチスの対ガン研究』のなかで、「ナチズムそのものを私はある種の実験、排他的な健康ユートピアを実現するための壮大な実験として扱うことになる」と論じている。ナチス時代とは、反タバコ運動はもちろん、発ガン性のあるアスペクト石綿)や農薬、食品着色料の規制などが積極的に取り組まれた時代でもあった。たんに戦争と「ユダヤ人」虐殺だけに明け暮れた特殊な過去の時代として過ぎ去ったわけではなく、ナチスの時代が現代とも通じ合うような同時代性をもったできごとであり続けているということを、プロクターは鮮やかに示している。
 興味深いことに、フーコーはその晩年に近い時期(1982年)のヴァーモンド大学での講義記録である「自己のテクノロジー」のなかで、生への尊重と死への廃棄とが混在した状況が、ナチス時代のドイツだけではなく、総力戦を経た近代国家の一般的な特徴である可能性を示唆して、「殺されにゆきたまえ、そうすれば、きみに快適な長生きを約束してあげよう」という奇妙なスローガンで表現している。
 国外の敵と殺し合い、ときには国内の「不適格者」や「生きる価値のない生命」を処分すると同時に、国内の「トウトサをもつ生命」に対して健康増進政策や福祉を提供して尊重するという社会システムのあり方は、程度の差はあれ、枢軸側と連合国側のどちらにも共通している。ベンヤミンが「生命のトウトサというドグマ」を論難しながらも、かいまみせるある種のためらいは、この生への尊重と死への廃棄が矛盾なく同居する時代の予兆を反映しているのかもしれない。ーp103ー

 前日、《ジジィにとって、若者も、間違いなくジジ・ババになるのだから、「老人を見殺しにしない国」になって欲しいですね。 それが結局、「若者を見殺しにしない国」になるのだから。 でも、「安全・安心・監視」が張り巡らされたグローバルな社会において、例えば東浩紀が構想するみたいなバリアフリーを基盤とした都市計画デザイン(「生きること」が多分第一義であろうが)、それと「自由」のモンダイとどう折り合いをつけるかどうか、そのことも問われますよね、主体を自明のものとして「生命と自由」の問題を考えていいのか、そうではなくて、人工環境として、動物/人間の境界線を越境したところから「生命」について考えるしかないのでしょうか。》かようなことを書きましたが、今週の土曜日でジュンク大阪店で行われる美馬さんの本書をテキストにしたトークイベントで何らかのヒントを得るかもしれません。ちゃんと聴かなくてはいけないですね。それまでに本書を読了します。id:elieliさんは、再読ですか、若い人は速いですね、毎年、本を読むスピードが落ちている(汗)。