消えない/死なない(荒川修作)

芸術の神様が降りてくる瞬間

芸術の神様が降りてくる瞬間

 人は、人の記憶は、消えるけれど、データの記憶は消えない、でも、人は「死なない」ことが出来るのかもしれない。そんな広がりで、間で、人と人との間で身をごろんと置けば、消えないデータは、消えないことによって、死んじゃうものかもしれない。そんな消化不良のことを考えてしまった。
「荒川修作・噴火し、遍在せよ!」(茂木健一郎・クオリア日記)の音源は、まさしく火を噴いていますが、データですからね。当日の東京芸大の教室でのライブトークに参加した方は、どんな畏れの体験をしたのか、想像が出来ないデス。
 荒川さんの「共同体」(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=3368776&comm_id=57135)って知りたいと思う。でも、この「知る」っていう汚染があると恐らく知ることが遠のく、「共同体」であって、一昨日、町内会で、挨拶運動を推進なんて、論議されましたが、「挨拶」が一歩の入り口ならこんな優しいことはない。ビデオニュースドットコムで、徳川さんが、「江戸時代のシステム」について喋っていたが、少なくとも、今のこの国よりマシな社会みたいに感じられたのは、共同体の中で、「強者への道徳」が駆動されていたことでしょうか。庶民は出来るだけ自由に放っておかれたことでしょうか、武士には厳しい生き方、道徳が課せられていたわけで、三歳の頃から実学でない「教養」がインプットされたわけでしょう。切腹、閉門、お家取りつぶし、それでも養子縁組が多く、土地の私有を認められていなかった。流動化は、あったのです。「お金は汚いもの」として、買い物するときは、札入れを渡し、裸の銭に触れよとしなかった。袱紗に包んで渡したりもする。そんなビヘイビアーが身に付いていたわけです。庶民には「読み書き、算盤」の実学が寺小屋で、教えられた。少なくとも今の時代、「強者への道徳」が生きていないですね。1960年頃ですが、最初に就職したところは、船場の名残が残る会社であったのか、僕が新入社員一年のペイペイで、ある用件があって初めて社長宅に訪問した時、奥さんが玄関先に出たきて正座して、僕に座布団をすすめながら、本人は板の間に額を深々とくっつけ、恐縮しながら、挨拶されたのにはまいりました。商人(あきんど)の伝統がまだ生きていたのですね。落語にもそんな誇り高い浪人武士や商人が登場しますね。
 そう♪柳田格之進古今亭志ん朝のyoutubeがアップされています。
 ♪http://www.youtube.com/watch?v=IlbdVNM_CMo、久しぶりに聴きましたが、たまらない気持ちになる。

 武田徹さんが、故佐藤真さんの映画『『OUT OF PLACE』についてオンライン日記に書いている。

イードの生きた時代もその仕事は過去も人になったのだ、そんなことを改めて思った。
そしてもうひとつ過去になったひとがいる。その映画の制作者である。上映会の関係者がそのことまで知っていたのかは分からないが上映前の説明でその言及はなかった。そして観客がどこまで知っていたのかは分からない。その映画は二重、三重の意味で過去になった。サイードがかつて語っていたことを取り上げる映像は、ロラン・バルトのいうように「かつてあった」ことの記録でしかなく、そしてその映画を撮影したひとも今はいない。
 なぜサイードの言葉や人生は佐藤真氏に生き続ける勇気を与えられなかったのだろう。その問題を過去のものにせず、引き受ける。そんな使命を感じるのだ。それについて考えることの核にあるのも、やはりいまだ未解決のパレスティナであり、それを象徴される不寛容かもしれないと思ったりする。

1999年頃か、元気な佐藤さんの姿を「王子駅近く」でよく見かけたので、とても痛く感じる。「たら」の話しになるけれど、荒川修作トーク(音源)を聴きながら、「荒川さんを撮ってれば」、生き抜くことができたんではないか、と、「ふと」、思いました。
 「かってあった」サイードの言葉のトレース、復元ではなく、今ある「荒川さん」を撮るには、撮る側がそれ以上の強いエネルギーが必要だと思いました。そのことが「死なない」に繋がる。

 そして、<私>は、葉っぱ64であり、id:kuriyamakoujiであり、栗山光司であり、色々で、千の<私>なんだろう。このブログの名前はかって「千人印の歩行器」であったし、「葉っぱでアフォード阿呆ダンス♪」であった。それで、いいんだと思う。何か、七つの顔のw片岡知恵蔵千恵蔵風になってしまったね。「知恵蔵」は休刊ですか、でも、片岡千恵蔵「死なない」大河内伝次郎丹下左膳大河内山荘も死なない、(多分)。大河内山荘の紅葉はどうなのか。グーグル検索したら、どうやら、紅葉狩りは12月になるかも。冬の紅葉狩りもいいかもしれない。