文化祭もいいものですねぇ。/「死なない?」

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 中央大学文学会主催の古谷利裕を対談相手に「保坂和志 講演会 〜 小説を現実の一環として書くには」は、僕自身はその場にいなくて歌人枡野浩一さんが『掲示保板』で書いているようにコメントする資格がないのですが、そのことを括弧にいれて僕のこの講演会についての言動をロムしてもらいたいと思います。主催者側でかような記事がアップされていました。

 ◆講演会後の反応
 「気になる言葉/一生懸命のいい加減さ - 葉っぱの「歩行と記憶」」にまとまったものがあります。
 「BBQ鯵 - Übungsplatz〔練習場〕に非公式に公開された音源(61.7MB)へのリンク」があります。「掲示保板」の書き込みNo.3025にもあるように、是非はともかく、これはちょっとした事件です。 (以上はWeb担当者の感想で、文学会の公式見解ではありません。)

 古谷利裕さんの応答を紹介した『気になる言葉/一生懸命のいい加減さ』をエントリーしましたが、僕の理解を強化してくれるトラバをid:kurageruさんが、してくれました。♪「真に受けること」と「信じること」 です。

そしてこれは、言葉によるフィクションの特徴だろう。映画や絵画のようなものでは、イメージはまぎれもなく目の前に現前しており、そもそも「真に受ける」──つまり、真偽の判断を保留しつつさしあたり受け入れる──といった態度が成り立たない。言葉だけが、「真に受ける」ことを可能にし、また要請する。 小説の言語は、原理的に「真に受ける」ことしかできないものだ。朝目覚めるとザムザは甲虫になっていたと言われれば、そういうものかと思って読み進めるしかない。古谷ー保坂がいいたいのは、そうした原理を無視できるかのように読むものが多すぎるということだろう。私たちはザムザが甲虫になったという言明を一旦受け入れ、そして物語の進展にしたがって、ああやはり彼は甲虫になったのだ、と得心する。下手な作品にはこれができないのだが、原則として小説というのはつねに、一時的な「信仰」を要求するといってもよい。(http://d.hatena.ne.jp/kurageru/20071109/1194636300

 そして、id:kuraeruさんは「一時的な信仰」について、オコーナーや宮沢賢治について語るのですが、確かに一時的であれ、「信仰について」まで行き着かないと、問題の有り様が見えないかもしれない。荒川修作の「死なない」もそうであろう。
 ところで、保坂和志公式HPのパンドラの香箱にもお邪魔してお騒がせしましたが、アクセス数が通常の倍増になって反響の大きさに驚きました。僕は偽日記さんのブログのみならず、隔月誌『風の旅人』の連載エッセイ「現代生活の中の絵画」を愛読するものとして、まとまった古谷さんの単行本企画が立ち上がればいいなぁと思いました。膨大なテキストを一冊の本に削ぎ落とした作品として読んで見たいのです。

真似をする、ということは、既にあるものをたんにコピー&ペーストすることではない。そうではなくて、既にあるものを、自分の身体を通してもう一度やり直してみるということだろう。自分の身体を通してやってみる時、そこには、ただ形をなぞるという以上の何かが生じるはずだ。名人の型を、素人が見よう見まねでやって見る時、あるいは、既に書かれた文章を、ただ書き写してみる時、それは型をただ「型」として見ている時や、文章をただ読んでいる時とは違った何かを、真似をする者は得られるのではないだろうか。──『反復される度ごとに、身体のなかで新たに生まれるもの』(「風の旅人・27号」より──

死ぬのは法律違反です―死に抗する建築 21世紀への源流

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