「ひと」は死なない。。。

死ぬのは法律違反です―死に抗する建築 21世紀への源流

死ぬのは法律違反です―死に抗する建築 21世紀への源流

荒川修作+マドリン・ギンズの『死ぬのは法律違反です』のカバーにこんな惹起文があった。

小学生の入学式に、校長先生が「皆さんが、もし、よく勉強しからだの可能性を自分で一生懸命考えれば、死ななくてもよくなる日がくるのですよ」と言いました。

偶々傍らに赤木智弘の『若者を見殺しにする国』の帯文の「私は死にたくありません」が目に入り、上の荒川の言葉と無縁でない引っかかりがありました。

私は死にたくありません。だからこうやって悪あがきをする。それはかっこ悪くてみっともないことだけど、しょうがないですよ。こうやってかっこ悪いことを書いて、それが他人に伝わるかはわからない。伝わったとしても誤読されるかもしれない。また、伝わっても、何もしない人ばっかりかもしれない。それでも一縷の望みをつなごうと必死なのです。私たちのような、いまだに真っ当な役割を与えられぬまま、社会の周辺で、社会の内部にいる他人を恨みながら生きるしかない人間を、社会のなかに組み入れるためには、どうすればいいのか。

次の言葉に一時停止したわけです。

社会の内部にいる人間の、ほんのわずかな「親切心」や「思いやり」の連続が、かって社会の外部で、なかをにらみつけることしかできなかった人間を、社会にとっての必要不可欠な「ひと」に変えていくのではないでしょうか。

荒川は社会の内部と外部とを溶解というより、そういうものを飛び越えている、種としての「ひと」、間としての「ひと」を見据えている。永遠の命を作り上げることなんです。あまりにも壮大し過ぎて僕にはコメントすら出来ないが、こういう大風呂敷を超えた最早空飛ぶ絨毯どころか、「この有機体、この身体は《生命》をつくるためにやってきたんだ」とベタに言えることに驚いてしまうが、こういうひとが同時代にいるということに何かほっとしたものを感じます。赤木本の帯文の「ひと」と文脈は違うかもしれないが、社会というフレームであっても、そこには種、類としての「ひと」を見据えている気がしてならなかったです。結局、赤木さんの問いはそのような「死なないひと」を作りあげることでしか答えはない気がする。