ケータイ小説/自分でなく世界を

 ネットラジオ『ゲンダイモンダイ』の30回目は「ポスト個人主義を考えるのパート2」ですが、まりんさんが、リチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』(岩波書店)をテクストに「リベラル・アイロニー」について語っている。
 僕に多少なりとも核があるとしたら、「リベラルアイロニスト」であろうと思っているから、今回の放送はとても刺激を受けました。確かに「公共性」ってこの国ではこなれていない言葉だと思う。「お上」でも「国」でも「会社」でも、「家」でもないところから浮かび上がってくる「公共性」は、先日、「マル激トーク・オン・ディマンド 第347回(2007年11月24日)・ 動き始めたポスト京都と日本の役割・ゲスト:小西雅子氏(WWF気候変動オフィサー) 」の放送を聴きましたが、社会的責任投資がもっと、もっと活発になってもいいですね。
 「環境力企業」を評価軸にした投資ファンドがありますけれど、「公共性」にインセンティブがあれば、そこが動機の入り口になって拡がると思う。アメリカの寄附制度や、養子縁組に触れていたが、そのような振る舞いが富裕層にとっての「社会的なステータス」になることでもインセンティブの一種になりうるわけです。
 NPONGOのような団体にEUのある国では10人に一人は参加しているとのことで、そのあたりの「公共性参加」の意識はこの国ではあまりにも低いのかも知れない。せめて精神性の高い心映えがなくてもいいから、投資ファンドで「あしたの地球」を考えてもいいのではないかと、思ってしまうw。
 毎日新聞「雑誌を読む」の11月28日(夕刊)で武田徹が「ネット空間の大人と若者」という記事を書いている。

[……]そんなグーグルからの王座奪回を目指す検索業界の動きを紹介する『ニューズウィーク』特集で、日本のポスト・グーグルの試みとして挙げられていた経産省に「情報大航海プロジェクト」には苦笑させられた。公共的であるべき検索サービスは、片や広告業によって、片や未だに支配欲旺盛な官僚によって私物化されようとしているのか。(中略)こうした大人たちの所有欲蠢くメディア社会の中でどんな若者が育ったのか……。
 中西論文(筆者注:『自己責任時代の<一途>を映すケータイ小説』=世界12月号)は若い世代に人気のケータイ小説を分析。自らの不幸な境遇への「卑下」と、どんなに辛くとも社会に救済を求めない「自尊」が競い合う構造がその特徴であると示す。
 そんな孤独な「プライドの戦場」としてのケータイ小説へ、若い読者は自分の生活を投影させる。つまりそこにもまた「私」だけがある。「私」の偏在、「公」の不在は経済・政治から文学まで横断し、世代を跨ぎ越えてある構図のようだ。

 東京版・日経21日付け夕刊のコラムで、「小説家は小説に奉仕するもので、自我を乗り越えなければならないとする保坂さんの考え方にうなずかされた。ぼくも書いていきたいのは自分でなく世界」(磯崎)と述べた。」と『肝心の子供』でデビューした磯崎憲一郎は影響を受けた作家として保坂和志をあげていましたが、ここに言う「小説」も又、「公」につながるものでしょうか。
 「自分でなく世界」というとき現れるものが、「公共性」だとしたら、少し小さすぎる感があるけれど、せめて、普通の暮らしの中でそんな「公共性」を地道に取り入れたいとは思います。勿論、作家は「公を越えた公」の閾まで登りつめて行く途上の作業だと思うので、停車駅はないけれど、僕は一時停止もしながらも、ゆっくりと歩きます。
 地元の本屋を覗くと、ケータイ小説コーナーがあってどんと、平積み、メンチンされていました。改めて業界がケータイ小説に熱い視線を投げかけているのを見せ付けられて、寂しい気持ちになりました。