60年代が終わって、


 何故、陽水の『傘がない』を動画アップしたのか。web草思の「世界はこんなふうにも眺められる」から、保坂和志の19回・「70年代の2人の小説家」で、野坂昭如筒井康隆について書いているのですが、その延長戦沿いで、保坂さんが、掲示保板で、興味未あるやりとりをしている。そこで、ミーイズミの幕開けは井上陽水の『傘がない』で、「1人で1ジャンル」の80年代最後の人は「橋本治」だと言う。それで、何となく「傘がない」を聴きたくなったわけ。
 60年代が終わって、というよりその分水嶺に「傘がない」があって、ミーイズムが浸透する。そして80年代のブルーハーツへとつながり、他方、世界でない「セカイ系」へと飛翔して、95年のオウムの不幸な着地をしてしまう。そして、2001年の同時多発テロ事件は21世紀の幕開けを象徴するようなもので、いまだにそれが、右往左往と続いており、ただ、何となく予測出来ることは、最早、アメリカの時代は終焉だろうなぁと言うことではないでしょうか。でも、かような見取りは「針小棒大」による僕の床屋政談的歴史観で眉に唾した方がいい。
 保坂さんが掲示保板で語っている。《だから、「歴史」に対する関心というのはいつも警戒が必要だと思う。「歴史」を語るふりをして、別のことを語ってしまっている場合がほとんどですから。》は、耳が痛いデス。