嗤って笑わない人


 ミクシィ経由から知った、『新しい階級社会新しい階級闘争 』の著者橋本健二の読書&音盤日記による赤木智弘本の書評から引用。

著者は、「『企業』や富裕層、そして安定労働者は、団塊ジュニア世代を浪費しつくし、そのアガリを共有することで経済成長を死守しようしているのです」という(p.172)。その現状認識は、残念ながら正しい。

 僕もその共通認識はある。だけど、その認識がありつつあえて「俗流若者論」で団塊ジュニア世代を口撃(嗤う)する無節操な大人たちが体感として多すぎるのが問題なんだろうね。才覚もなく、システムに守られて上手くくぐり抜けたという大人たちは、実はそんなに多くはないかもしれないが、そういう連中に限って、自分の処世術を自慢し組織内での地位を自助努力した果てで勝ち取った社会的承認の勲章なんだと自慢する。
 せめて、時代の後押しがあったという謙虚さが欲しいとは思う。乱暴にもアンダークラスからの既得権益を寄こせの声を聴いてやる度量がせめて欲しいとは思う。そんな余裕がないから、矛先を富裕層の一部に向かわせて共闘、連帯しようとするのが、彼らの戦略であるのでしょう。でも、やっぱし安定労働者達がワークシェアリングの方向に向かわなければ局面の打開は出来ないと思う。
 昨日の毎日新聞の朝刊の一面で国家公務員4122人削減という記事があったが、こんなやり方は問題ではないかと思う。むしろ、4122人削減する代わりに、ワークシェアリングを導入して再分配を行う。それしかないのに、やろうとしない。経済成長率が2%なら、それ相応の再分配を図る。当然、そこに既得権益に対してメスが入る。僕は小さな政府志向ですが、市場原理に任せた方が、ワークシェアリングが実際に実現可能だと思いますね。そして憲法25条を根拠にした生活保護法のセーフティネットのインフラを小さな政府の最優先の仕事とする。
 僕の大好きな民法学者沼正也は「契約法」と「親族・相続法」のメリハリを明確にしていましたね。徹底した市場原理と徹底した生活保護法の貫徹です。そんな法体系を打ち立てたのですが結局、異端法学として受け入れなかったですね。我妻栄民法学がメインになったわけです。
 それは、ともかく、id:leleleさん経由の小飼弾さんによる赤木智弘本の書評には、笑いました。嗤いではなく笑いです。実は僕の十八番は「笑い上戸」なのです。オフで会った人が最初に呆れるのは、僕はマジメに話しているのに、急にスウィッチが入ったかのように笑いがとまらなくなる時があるのです。相手方達のビックリした表情を見ると又、止まらなくなる。でも、不思議と一対一ではそんなことは滅多に起こらない。長続きしない。どうやら、笑いが笑いを伝染すると言った「感染」(ミメーシス)になるみたい。
 そう言えば宮台真司がブログで更新したエントリーで盛んに「感染」について書いているが、「感染」って確かに大事なことかもしれない。まあ、感染体質に間違いない。笑いの誘発のスウィッチがどうもこの感染にあるらしいのです。

感染(ミメーシス)とは初期ギリシアの自然学以来の重要な概念です。日本では感染動機が軽視されています。たとえば教育に関わる三つの動機があります。第一が競争動機。勝つ喜びです。第二が理解動機。分かる喜びです。第三が感染動機。同一化する喜びです。
 日本では、似非右翼が競争動機にばかりに止目し、似非左翼が理解動機ばかりに止目します。でも本来ならば、内発的な情念の連鎖を重視する真性右翼も、共同性への志向を重視する真性左翼も、ロールモデルに憑依される感染動機をこそ、重視しなければなりません。

 世界に感染し、相手に感染し、時には野良犬、野良猫に感染する「むず痒さ」が、どうやら僕の笑いの源泉みたい。僕の大好きなイギリスの思想家であり作家のG・Kチェスタトンが創作したブラウン神父の探偵のキーワードは、「感染」でしょう。犯罪の現場に行って、ブラウン神父がやることは、いわば、犯人に憑依することでしょう。そうすれば、自ずから犯人を発見できる。いや、犯人を呼び寄せる。
 「嗤う」という行為にはそんな「感染」がない。そもそも他者を断念している。探偵/犯人とのスレッドが入る断念がありつつ、道は違うけれど、結局、求めるステージは探偵であれ、犯人であれ、同じなんだと、それは恐らく、多一論的宗教観に裏付けられた「神」であろう。チェスタトンは神を信じるニーチェとも言われているらしいが、カソリック教徒であることは一つの道標なのだろう。
 中島岳志『インドの時代』で、マザー・テレサ列福式を祝うイベントで、ある都市中間層ビジネスマンの話を聴いてほ!とする。というのは、その前にVHP(世界ヒンドゥー協会ヒンドゥーナショナリズムの聖職者団体)の事務所を訪れて顔馴染みの幹部連中とチャーイをすすりながら何となく「マザー・テレサをどう思うか?」という質問をぶっつけたら、険悪な雰囲気になったきた。「……、マザー・テレサは侵略者だ」と言ってのけるのです。最早そこには、宗教家の顔ではなく、政治家の顔が露呈する。そんな苦々しい思いを背にしていたのです。

「神は常に一つです。ただ、一つの神に様々な名前が付けられているだけです。それがシヴァ神であろうが、アッラーであるうが、イエス・キリストであろうが、ブッダであろうが、名前が違うだけで同じ一つの神なのです。キリスト教徒であるマザー・テレサは、キリストと名付けられた神に奉仕した人です。その神は、私の心の中にいる神と全く同じものです」(P210)

 VHPの幹部連中は「嗤うことが出来ても笑うことが出来ない輩でしょう」、かの市井の人は「笑うことの出来る人です」。そう言えば北田暁大『嗤う「日本」のナショナリズム』という本があったが、『笑うナショナリズム』なんて言う本を読んでみたいですね。
 leleleさんのもう一つのエントリーで映画「モンスター」について書いていますが、この映画を見逃したのを思い出しました。DVDで見てみたい。
 ブラウン神父のキーワードは「感染」です。ブラウン神父シリーズで、大体犯人は逮捕されたことより、この世で、初めて自分を受け入れ理解してくれた人に巡り会ったことに感謝して、刑を受けることはどうでもよくなっている(笑)。春秋社から出ている『G・kチェスタトン著作集』がありますけれど、ブラン神父シリーズの方は青空文庫で読むことが出来ますよ。
 笑う門に福が来る。嗤う角に災いあり、っていうのは、そうだろうね。
 正月になると染之介・染太郎の傘回しで、一年が始まった気がする。でも、一人で笑うのは大変だぁ。ちょいと早いけれど動画サービスです。