踊りたくなる小説

 友人から書き上げた小説を送られ長文の返事を書くハメになってしまった。彼は極貧生活でパソコンなんか持っていなく、もらった旧式のワープロで日々小説を書いている。
 バイトで金を稼ぎながら小説を書いていたのですが、どうやら、現在、無為徒食の借金生活をしながら書いているらしい。バイトをすれば、何とかメシは食えるがそうなれば、小説を書く気力が失せてしまうと言う怖れを感じているわけです。
 「書くこと」が宿業になっているわけです。それが生きることと等価、それ以上であるなら僕は何も言えないわけです。思いきって「書くことを断念する」ことが選択肢にないわけですから。
 彼にはリングで戦っているプレイヤーを外野席で安楽に眺めながら批評しているとの先入観が固執としてあるから、批評は難しい。でも、何らかのコメントを書いたのですが、この部分は公開してもいいと思い、僕の小説観でもあるので、一部引用しました。

 僕は前回の作品『いつの日か初夏の風となりて』が一番、好きです。何故だろうと考えると、●さんの今回の作品を含めて通奏底音として気になることは、浜谷とか、『昼下がりのとき』の喫茶店のマスターとか、高校生を登場させた堺を舞台であった小説『扉の向こうへ』に登場の高校教師とか、まさに●さんが「気が合わない」「何を考えているかさっぱりわからない人々」として無視、排除している彼らこそ、「感情移入」出来得ないからこそ、例えば、「考え抜く」という回路で、彼らにアクセスする、細かく描写する。そのような背景の補助線で「情」で「感情移入」出来てしまうカッコウいい、格好良すぎる●さんの主人公達がマイナスの影を持ってリアルに立ち上がるのではないか、少なくとも『いつの日か初夏の風となりての島川は生きていました。
 そんな役割は主人公の親友の北川ではなく、取るに足らない浜谷だと思う。だけど、この小説には主人公が嫌いな浜谷本人が登場しない。(一種の欠席裁判ではないか)
 作家自身も手にあまると言うか、恐らく、何も考えないで脊髄反応でしか生きていない、それでも生きている理解しがたい輩を、だからこそ、小説内で現前化させる。書いている作家も予想外の展開になって唖然とするかもしれぬが、そこに事件、サプライズ(驚き)が生まれる。そんな輩たちとリンクさせることによってしか、現代小説のリアルは立ち上がらないと思う。単なる「排除の論理」で閉じこもった、勿論、そこには欧米的な精神の背景があるのだが、「近代小説」を乗り越える「現代」を描かなければ、小説のリアルは立ち上がらないのではないか。 読者のみならず、小説家自身も踊らされる作品であって初めて、その作品は開かれてゆくのだろうと思う。