健気さか(報道作品としてのケータイ小説)

 武田徹ケータイ小説は報道の一形式である (【週刊読書人】(2008年1月25日号)より は、僕がどうしても解けない謎、「どうして、こんなにもケータイ小説は読まれるのか」、実際、自分で読んで見て面白ければ、理屈ではないから、それなりのナットク出来るのですが、ライトノベルを含めて読めないどころか、苦痛で途中で投げ出してしまう。どうでもいい退屈な言葉の羅列。共振出来る回路がない、せめてその回路、接続ポイントの位置を知りたいと思ったのですが、武田さんのこの論考はそうか、ケータイ小説は小説ではなく、報道の一形式かとちょっぴり霧が晴れたのでした。
 かって、武田徹は『風の旅人 22号』で、藤原新也の『渋谷』について、写真術という切り口で論考していたが、そこで書いている「おそらく今、渋谷を最も忠実に記録しているのはそこに集う者達が互いに取り合った他愛ないケータイ写真だろう。現実には不可能だが、消去されたり、忘れ去られる前にそれらを全て一同に集めて高速でスライドショーでもしたら、」(p114)と書いていましたね。
 藤原の写真が文学だとしたら、ここに言うケータイ写真はケータイ小説でもあると思う。月数十億のアクセスに対称する高速でスライドショーするケータイ写真。そこで、武田さんは、ケータイ小説の文体について使用される言語をシフター(転換子)として思考実験する。
 それは上にリンクした『渋谷』のケータイ写真でロラン・バルトの道具概念「プゥンクトゥム」を持ち出すのですが、それについて、「プゥンクトゥムの刺激は一般的な説明が不可能だ。写真を見るひとの個人的な経験と響き合うことで、他者に説明不可能な刺激が生じる。」(p112)とある。ひょとして、シフターはプゥンクトゥムと重なるのだろうか。

そのためケータイ小説ではディテイルに乏しい文彩ほど感動をもたらすという屈折が生じる。というのも既存の文学的価値観において「うまい」作者がみっちりと描き込んで、独立し、自律した一つの言語空間として文学作品を作り上げてしまうと、読者にしてみれば「自分とは違う世界」だと思えてしまい、支持が得られず、ケータイ小説としてはヒットを飾れない。従来の小説が現実の「外」にいかに独立区として言語空間を作り出せるかを競っていたのに対して、ケータイ小説は読者の現実といかに接続できるかを競っているのだ。

 そして、武田さんはシフターのみで構成された表現ということでは似たものが実は現状でもありえる。それはジャーナリズムの表現であるとおっしゃるのです。
 そこに報道写真を含めたジャーナリズムの問題が立ち上がる。ケータイ小説とジャーナリズムは言語表現の「質」から感動の喚起の方向性まで類似しているとは、何か目からウロコになりました。

だからこそ、そんなケータイ小説の台頭とは実はジャーナリズムの不在を埋めるものではなかったかとも思うのだ。(中略)まさに下層の若者の生活圏はジャーナリズムの射程が及ばない世界だった。これはジャーナリズムに関わる者として自戒を込めて書くが、下流社会化はしばしば報じられていたし、下世話な好奇心で若者のライフスタイルが取り上げられることも多いが、当事者の若者達の心の琴線に触れるようなルポは書かれなかった。
 その空隙をケータイ小説が埋めた。マスメディアが報じなかった若い下層生活の心情を切実に伝えてくれるものとしてケータイ小説は求められたのではなかったか。

 僕は確かに、ベストセラーになったケータイ小説を「こんなものは小説ではない」と冷笑して済ましていたところがあった。(反省)でも、生理的に読めないところがあるから、小説ではなく、報道記事(作品)として読めばいいのかも知れない。だったら、読めますね。ケータイ写真は少なからずそのようなものとして受容しているんだから、別段、違和感がない。赤木智弘著『若者を見殺しにする国』もそんなノリで読んだ気がする。
 僕にはケータイ小説なんか書けないが赤木さんなら、書けるかもしれない。
 でも、武田さんが書いているように、中西新太郎「自己責任世代の一途を映すケータイ小説」(『世界』07年12月号)の論考で、

中西はケータイ小説には「自分への理不尽な攻撃も抑圧的な世界の威力も<私が耐え忍ぶべき試練>へと変換して了解する」一途さが描かれており、「自己責任」イデオロギーが浸透した世代の産物だと指摘する。ただし、その「自己責任」は何もかも自分のせいにされる受害として自覚されているのではなく、どんなに辛い目にあっても決して社会に救済を求めない「健気さ」が作者の尊厳となり、その尊厳に共感できれば読者が増えて行く構図を作り出しているという。

 もし、そうなら、あくまで、「自己責任」とは対極の地点で抗う赤木さんは、ケータイ小説はやはり書けないのでしょうね。