手続きとしての自己責任

しかし、本文がフリーズしても、コメント欄は日々更新していますね、文字数もコメント欄の方が多くなっている。主客逆転、とても嬉しい、コメント欄の方がクオリティが高くなるのが理想ですよ。ありがとう!

永六輔によると、「この頃になってやっと無料で歌えるようになりました。うれしいですね、そこまでくるのは容易じゃなかったんですが……」と東海林太郎は言ったという。*1

 もう暫く更新はしないと思っていたのに、このところ、赤木本キャンペーンブログ、ミクシィ内の赤木コミュでも、僕やid:kanameさん、id:yamazakuraさん他、数人の方達は良くも悪くもアクティブに動いているが、コメントの内容云々ではなく表層に現れた手続き上の問題と非常にわかりやすい、合理的な対応のコメントが出来るはずなのに、寂として声がない。だから、ここに、予定外なエントリーを赤木ブログのコメントから引用してアップします。
 ミクシィ内でやりとりしているのですが、僕が書いた最新のコメントをここにコピペします。興味のある方はミクシィでロムして下さい。尚、僕はこのブログにカテゴリーされていた「栗山光司」(id:kuriyamakouji)で、自分の自由意志でここを脱退しました。でも、コメント欄は管理人のid:kanameさんの言うようにカキコ出来るから、ここに書いているわけです。↓の文章のカナメさんは、管理人のkanameさんのことで、yamaさんは、自分の自由意志で(潜在的にはわからないですよ、少なくとも資本制の法理論上は有効)脱退しないし、手続き上のミスだと管理人のid:kanameさんに復帰の意思表示を明確にしているid:yamazakuraさんのことです。少なくとも他のカテゴリーの方達も何らかのコメントはすべきだと思う。最低限の常識としてもね。

いいですよ、
僕の常識から言えば、何にも言わず、カナメさんが赤木本ブログにアップすべきだと思うが、
(誤解ないように記すると、赤木さんの「自己責任弾劾」もそうですが、基本的にyamazakuraさん、カナメさん、赤木さんは、僕のブログのコメント欄にカキコしてくれた人が盛んに示唆していたことですが、白井聡の『未完のレーニン』のレーニンのように端から資本制を認めないで、革命というなら、「自己責任はダメ」に着地する。でも、赤木さんは、前から僕とのやりとりでも、「人生カネがすべてではないよ」というクサイ台詞に反応して「いや、すべてだ。愛もカネ」っておっしゃっていた。本人としては現実の分析が資本制を絶対視した処世訓になっている。だったら、「自己責任」を認めなければいけない。この自己責任(自由意志)は資本制が支える契約法(債権法)の世界でそれで、市場が回っている。それが基底にあるわけです。EU型であれ、アメリカ型であれ、何らかのハンディを背負っている人には保護法(親族・相続法など)によって、取りあえず、競争の市場から退場、休憩してベンチに下がる。この部分は「自己責任」とは違うシーンです。赤木さんは、ここをごっちゃごっちゃにして言うからややこしいことになるのです。職人としてのイチローが市場という土俵(自己責任の場)でしのぎを削っているのは例え、ベンチや観客席に居ても素直に拍手喝采すればいいだろう。それがいやなら、かっての中国の文化革命で毛沢東がやったことをすればいい。又は、「未完のレーニン」のレーニンがやろうとしたことをやろうとすればいい。でも、「おカネがすべて」の処世訓を持っているから赤木さんは革命家になろうとしていない。だったら資本制を肯定する限りにおいて彼は「自己責任を肯定」している。それが五体満足なら自分のケツは自分で拭けよ!ということですが、どうやら、この僕の常識が共有されていない。
(続く)
そこで、今回のyamaさん、カナメさんのことですが、いわば(1)意識層=自由意志に基づく契約法の世界、(2)無意識層=保護法において、yamaさん、カナメさんは、無意識層においてやりとりしている。でもそれはとても誠実な態度だと思う。お互いの実存がちらちらと垣間見えるもんね。だからむしろ、二人ともいいヤツだなぁとは思うわけです。
カナメさんが差異と連帯について書いていましたが、無意識層において、例えば、「あんたなんか、嫌い、嫌い…」って言いながら、「でも、結婚する」という道行きの矛盾を受け入れることが「差異と連帯」だと思う。(1)契約法の世界において、オマエがイヤだと無意識の顔が覗いていても、サインなり、判子なりが捺印されていなければ、無効なのです。それが資本制世界のルールで、もしそれをカナメさんが、無視するなら、カナメさんも毛沢東なりレーニンにならなければならない。そういう理屈になるわけです。例え、yamaさんが俗情(大衆)に媚びた振る舞いをしたとしても、資本制のルールに適った行動を示したことに間違いない。だから、経緯はどうであろうと、現時点で表に顕れたyamaさんの「自由意志」はアップするということなのだから、無条件で手続きとして受け入れなくてはならない。資本制を肯定するならねぇ。
僕はカナメさんにそれとなく言ったように管理人独裁の新たな赤木本ブログをリニュアールしたって構わない。ただ、赤木さんにも言えることだが、一体、二人とも「資本制」を認めるのかどうか、そこをはっきりして欲しいと言うことです。認めない、革命家になるんですと言明するなら、わかりやすいのだが、そうではないみたいだなぁ。
僕は資本制を肯定した上で「自己責任の問題」を考えているわけで、「未完のレーニン」のようにレーニンが構想したという白井聡の見取りが、より最適ならそちらを選択するにやぶさかではない。
僕は、自由意志を出来る限り尊重したいオールドリベラリストに近いと思います。その限りにおいて「自己責任」(五体満足なら自分のケツは自分で拭け)、白井聡さんのレーニンにはなれない。
もし、赤木さんが、100%自己責任はダメだと言って「未完のレーニン」の理想を引き継ぐと言うなら、ナットク出来る。僕には出来ないから、「自己責任」(市民原理)と「制度の修正」(生存権・保護法)のバランスをとって考えているわけです。

 興味のある方はこちらを参照して下さい。
追記:(1)http://mixi.jp/view_diary.pl?id=725857017&owner_id=1810524&comment_count=25
   (2)http://mixi.jp/view_diary.pl?id=730838673&owner_id=216023&comment_count=21
(3)http://d.hatena.ne.jp/t-akagi/20080223#c
 ★僕がたったひとつ言いたいとしたら、思想信条、左も右も関係なく、せめて、言い放し、やり放しではなく、少なくとも五体満足で市場世界に参加している人は「自分のケツを自分で拭く」という最低限の自由意志をルール、手続きとして保持しているかぎりは、「あたりまえのことをあたりまえ」にやって欲しいというだけ。それがイヤなら白井聡さんの言う「未完のレーニン」になりなさいと言うことです。

*1:永六輔著『芸人 その世界』より