週刊ダイヤモンド3/8号を読みました

 赤木さんが寄稿した週刊ダイヤモンドの記事を教えてくれた、白井聡コミュニにも入って赤木さんを熱烈に応援するマイミクさんの問いに答えて、こちらのコメント欄でカキコしてくれたharutoさんのコメントを補助線に刺激されながら、僕なりに考えたことを以下に書いてみます。
 ◆(搾取)
 資本制のOSは利潤をお代と言おうが搾取と言おうが「資本を回す」(投資)でプログラミングされている。そのような意味で原理資本主義が基底にある。「搾取」(利潤)を想定して世の中と回すのです。でも、誰だって搾取されるのは、イヤだ。そんで、ロシアンルーレットの様に偶有性(偶然)で、機会の平等、機会の自由、って言うか、今日、搾取されても明日になれば搾取する方に回る側にになるかもしれない。反対も有りうる。そんな風にルーレットが駆動することで、東西南北ナットク出来るシステムなのです。だから、八百長、インサイダーは万死に価する。そういう価値観で資本のOSは回る。でも実際はそうでない。表向き公正な取引をやっていると言いながら目に見えないところで地下経済は動いているし、ズルしながら上手に立ち回っている人がいる。それが「資本の自由の姿」です。
 そんな欺瞞が許されない、ワーキングプアが生まれる資本のOSはおかしい、そんな赤木さんのような怒りが生まれるのは当然です。
 そのOSをアプリケーションソフトで最適化と言うか、問題を先送りする。又は南北問題に現れるように自国のワーキングプアの問題解決を他国を植民地化、搾取することによって図ろうとしたのが、ケインズであれ、修正資本主義でしょう。でも、結局はツケを外部に回す。見たくないものを巧妙に隠すって言うか、そもそも、仲間、自国で、共同体で、「見ないでおこう」ということを前提にした物語(神話)を虚構して、自分達は誰かを搾取してんだという後ろめたさを例えばナショナリズムと言った共同幻想に下駄を預ける。
 そう言う生き方はヘタレであれ、処世としてナットク出来る。所詮、そういう尺度でしか「この世は生きれない」。でも、それにはナットク出来ない。オレには理想がある。根本的に「ワーキングプアの問題」を解決したい。そんな叫びが赤木さんにはあったわけです。
 でも、ニュートラルな非搾取状況を思想として語るに満足しないで理想王国をこの世に実現させようとするなら、資本制のOSをそっくりかえるしかないのではないか、そう言う革命的な選択肢が赤木さんにはないと思う。取りあえず、ウィンドウズからマックへ変えてみる試みはあるかもしれないが、この世に出現したマック(例えば東側)では、そのような搾取のない世界(原始共産社会)は無理であった。
 ◆(自己責任)
 雨宮さんにしろ、生田さんにしろ、みなさん、そのことを盛んにおっしゃっている。生田さんの新書「ルポ最底辺」でも現場において愛隣地区で仕事探しをするオヤジ達にしろ、むしろ、もの凄く自恃というか、自分に対して「自己責任」という高いハードルをかける人が結構多い。偶に缶珈琲でも渡そうとしても気を使います。僕の知り合いの女の子はアルバイトに行く途中、そ〜と、気付かれいように缶珈琲を段ボールハウスに傍においたりしたといいます。だから、雑誌「ビックイシュー」の販売はとてもいい試みなんです。
 単に物をもらうということは、もらう方も何らかの抵抗があるはずであるし、あったのです。出来る限りのお返しをする。そう言えば、東京の墓地のある公園でホームレスが住み込んでいましたが、彼は時々墓掃除、公園の掃除をしてり、野花をいけていましたね。そんなちょっとしたことです。僕のいるところの近くの公園にもひとりホームレスがいるのですが、時々掃除をしていますよ。「自己責任」の問題も、それぞれが出来る範囲内で責任を果たすということです。
 なんらかの金銭の授受のない、カネがなくとも出来る、例えば、ちょいとした約束を守るとか、そういうことは通常出来るはずです。例えば塩津計さんの本書のbk1レビューは実体として首肯できます。だからこそ、資本制OSではこの世はまわらない。こんなに迄してしゃかりき生きたくない、若い人は大変だぁと思うわけです。ガラガラポンしたい気分になっても不思議ではないと思う。それが、宗教的なもの、白井聡の「未完のレーニン」に繋がっても何ら不思議ではない。埴谷雄高が子供を設けようとしなかった気分はなんとなくわかる。
 ◆(約束)
 それは上も、下も関係ない。もし、その約束の場所にカネがなくて行かれないなら、「おカネを貸して下さい」で頭をさげれば済むはずです。頭を下げるどころか、傲然と交通費を出せ!って言われると、仮に相手がおカネ持ちでも出そうとしたカネも引っ込める。赤木さんにはそんな意固地なところがある。それがマイミクさんのいう赤木さんのぶれない魅力であるけれど、欠点でもあるわけ。
 そういう意味で赤木さん自身が「自己責任」に過剰に拘泥しているかもしれない。ス〜ダラと無責任に可愛い子ぶりっこ出来ないのでしょう。
 戦後日本で勝ち組になったのは、確かにそんな無責任な振る舞いをしたした人が美味しい思いをした事実があったことは間違いない。だけど、そう言う人たちの大多数は消えていったでしょう。少なくとも市場に淘汰されて、マスメディアとか官庁とか、そんな規制に守られたところがいまだに無責任でも生きられる席があるという大ザッパな見取りが出来るかもしれない。
 僕はだから、いわば左翼の連中がむしろ「自己責任」を旗に運動を起こす理論を形成すべきだと思いますね。
 赤木さんが、週刊ダイヤモンドで「愛国心」、「家族愛」という軸を提示していましたが、国家も、家族も虚構であるけれど、その虚構を深く信じ込む(そんな宗教的な強さ)広がりがなければ駆動しない。その糊代として「自己責任」は有効だと思う。もちろん、自己責任も虚構ですよ、近代社会の成り立ちはその虚構を信じるというというところから出発したのです。
 今はその「自己責任」が上も下も崩壊して隠れて狡く立ち回ることが当然視されている。そこが一番問題なんでしょう。
 上記の三題は思考途上の戯言めいたものかもしれないが、変わらないベタなものが言外にあろうか、あることは間違いない。それは読み手の解釈しだいです。その限りにおいてこれも「自己責任」なんです。作家の読みと、読者の読みが同じなら気持ちが悪い。違うのが当たり前でしょう。