若者(論)が消費される。

赤木ブログで、鮭缶さんがエントリー更新しているが、希望は、(1)戦争、(2)クーデター、(3)政府転覆の三択を並べれば、赤木さんの「希望は、戦争」は無敵モードだとポイントをついたことを書いている。
昨日、後藤和智さんが、寄稿した『季刊・現代の理論』の新春号をこちらの図書館で蔵書していたので読みました。この雑誌を図書館で置いているところは少ない。
そこで、後藤さんは「さらば宮台真司」というタイトルで宮台さんを批評しているわけです。僕なりの読解では俗流若者論と「脱社会化」とをデータに基づかない「ニセ科学的」なモードで結びつけて、しゃべくりをやっているに過ぎないのではないのかと石投げをしているわけですよ。
成る程とナットクできるところがありましたね。「脱社会的存在」、「反社会的存在」は別段、若者の専売分野ではなく、年齢・世代には関係なく一定以上はいたし、今でもいるでしょう。「働く気のない人」がある程度一定の割合で存在するように、でも、そのような人々を許容できるキャパを持った社会は住みやすさから言えば最適な社会だと思う。
どうやら、堀井憲一郎が『若者を見殺しにする時代』で書いていたように「若者」というカテゴリーがマスコミ・論壇によって作り上げられ、鮭缶さんの言う「戦争なんてものは政策の失敗の帰結として生じるものだから、多少見当違いなことを言っても許される。いや戦争を誘導する力になりうる。」という事情のもとで諸悪の根元は「若者」みたいな言論風潮が流布されたのではないか、別段、そこにちゃんとしたデータがあるわけではない。
ただ、左右を問わず、「反社会化」としての(2)、(3)を呼び込むことだけは何とか避けたい。特に先進諸国において、コストがかかるし恐慌を来す。(1)ならば、アメリカのブッシュがやったように一時的であれ、国が活気づく。そういう背景があるからこそ、赤木さんのキャッチコピーは無敵に受け入れられる素地があると思う。
宮台さんを始め、左右を問わずマスコミ、言論界そのものが「反社会化」を不可触として遠ざけ、「脱社会化」を憂うことで、行き場のない「脱社会化」が(1)の戦争を呼び込むのだと「何とかせにゃあならん」と、バターナリズムで「教育」を語ろうとしているのではないか、そして、そこで若者をターゲットにする。伝統やナショナリズムが発見、用意される。
(2)や(3)に誘導することは断固としてやっちゃあいけないと言う共通認識はあるみたいですね。